第191話 「味付けこそ生活文化の出発点」
食の思想家たち十四、永山久夫先生
☆縄文人
貝塚は日本最古の「おしながき」! と大森貝塚を見たときに思ったことがある。そこには鹿、猪の骨や、赤貝、浅蜊、蛤、蛽、潮吹、猿頬、灰貝、津免多貝などの貝殻が残っており、縄文人たちが豊富な食材を土器で煮て食べていたことが研究によって明らかにされている。
たとえば、鳥浜貝塚(福井県若狭町)や大正三遺跡(帯広市)などから出土した土器の、内側に付着していた成分を調べたところ脂肪酸が検出された。そこから縄文人は魚を300℃ぐらいの高温で煮ていたことが科学的にも証明された。
私も30年以上も昔だったろうか、加曾利貝塚博物館(千葉市)で縄文土器を作って、それで食材を煮た経験がある。土器は作るときから、煮炊用の鍋を意識しているから水が漏れないように土の空気を押し出してしっかりしたものを作る。
そして、それで煮た物の味は? ⇒ 塩味だった。
そのとき私は、縄文人は魚介類を煮ることによって自然と味(塩味)というものを知ったのではないかと思った。
となると、山野で動物の肉を炙ったり、焼いたりする民族は味付をどうしていたのだろうか?
そのような対比を考えてみると、煮炊用土器を発明した縄文人の偉大さは凄いものだと思う。
そんなころ読んだのが永山久夫先生の本であった。そこに記してあった「味付こそ生活文化の出発点」という言葉によって、ますます縄文人に関心をいだいた。
それから、私の料理への興味は、古代食 → 平安朝の大饗料理・神饌料理 →鎌倉の精進料理 → 室町の本膳料理 → 安土桃山の懐石料理 → 江戸の会席料理 →、そして江戸蕎麦へと進んでいった。
そうして分かったことは、全ての物事はやはり古代が原点であるというであるということであった。
☆永山久夫先生
とある日、お世話になっている江戸料理研究家の福田浩先生(江戸ソバリエ講師)と、あの食文化史研究家の永山久夫先生と、練馬の「萬月」で蕎麦を食べることになった。なぜ「萬月」かというと、「萬月」が先生のご子息の店だからである。だから、壁には永山先生が描かれた絵が貼ってあった。
うかがえば、先生は若いころは画家になりたかったとのこと。また、ご実家は麹屋さんであったという。だからだろうか、先生は納豆や麹についてお詳しい。そして、畑からは縄文土器の欠片がポロポロと出土していたと話された。それを聞いて、先生がなぜ古代食に関心を寄せられたかがわかったような気がした。
ところで、東北地方には「ずんだ餅」という土産品がある。これは文字通り「豆打ズダ」(→ジンダ)であるが、永山先生は「『徒然草』にある湛汰(ジンタ)は雑穀や木の実などを混ぜて造る醤」という喜多村節信(『瓦礫雑考』)の説はこれだろうと言われる。そこからさらに想像力を豊かにし、縄文人が草醤(漬物)、肉醤(塩辛)、穀醤(味噌)を食していたのはまちがいなという。
要は、日本列島の縄文人が、塩から醤へという現代へ続く調味料を口にしていたことを数個の土器の欠片から想像されたのである。これがロマンというものだろう。そういう先生とお話していると楽しい。時間がアッという間に経ってしまった。先生はペンを取ってサイン代わりに私の似顔絵を描いてくださった。私の宝物がまたひとつ増えた。
参考:E.S.モース『大森貝塚』(岩波文庫)、後藤和民『縄文土器をつくる』(中公新書)、永山久夫『たべもの古代史』(河出文庫)、蕎麦談義(第16話)、
「食の思想家たち」シリーズ:(第191永山久夫、189話 和辻哲郎、184石川文康、182喜多川守貞、177由紀さおり、175山田詠美、161開高健、160松尾芭蕉、151宮崎安貞、142 北大路魯山人、138林信篤・人見必大、137貝原益軒、73多治見貞賢、67村井弦斉)、
〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕