第393話 江戸名物《蕎麦尽》を食べよう

     

Tというカルチャー教室で、蕎麦屋さんで、蕎麦を食べながら、蕎麦を語る会を続けている。
今日はその4回目、駒込の「玉江」へやって来た。
当店は、《蕎麦尽》を供する店として知られているが、「《蕎麦尽》って何?」という方のために説明すると、「懐石や会席料理の伝統と技を取り入れて、蕎麦の料理だけで献立を仕立てたコース料理のこと」ということになるだろう。
では、その蕎麦料理とはどんな物?というと、次のようなものがある。
実の料理
・実(粒)のままを煮たり、焼いたりする。
粉の料理
・挽いて粉の状態のものを煮たり、焼いたりする。
麺の料理
・粉を麺にして茹でるか、揚げるかする。
葉や花を天麩羅などにする。
甘味として利用する。
お茶焼酎にする。

料理というのは、「美味しい」のは当然だけれど、お客を唸らせるような主義主張が貫かれていると、もっと楽しく頂ける。
たとえば、人間の味覚は、子供期=甘味、青年期=酸味、壮年期=苦味、老年期=甘味と変化するから、それにしたがって《甘味 → 酸味 → 苦味 → 甘味》という順にすれば、人間の生理に叶っているという話を聞いたことがあるが、いろんなコース料理に接していると、それらしいものがあったりすることもある。
さらには、野菜類は、上から順に《空中に成っている物 → 地面に生えて物→ 根の物》食べると身体に優しいという話も聞いたことがある。「ほんとうかな?」という気持と「なるほど」と思わせるところもあって、面白い。

さて、ここ駒込の「玉江」では、田舎の蕎麦料理を意識して御献立に取り入れている。
一、焼き味噌
一、蕎麦サラダ
一、板和布
一、蕎麦クレープ
一、早蕎麦 (長野県北志賀地区の蕎麦料理)
一、鴨の南蛮漬
一、蕎麦法度 (山形県天童市、青森県五戸地区の蕎麦料理)
一、蕎麦掻揚
一、茄子の蕎麦味噌
一、せいろ蕎麦
一、デザート

あるいは、ときどき訪ねる立川の「無庵」では、蕎麦料理と蕎麦料理の間に和の料理を供する方法をとっている。
一、蕎麦豆腐―イクラと山葵の餡掛け
一、焼味噌―紫蘇の実入り
一、点心
・石川小芋に芥子の実
・赤芋茎浸し
・唐辛子の葉佃煮
・秋刀魚肝焼き
・三度豆辛子和え
・茗荷酢漬し
・大浦牛蒡田舎煮
・銀杏汐炒り
・南瓜のレモン煮
一、蕎麦切
一、新烏賊オイル煮と畑の摘み菜野菜
一、蕎麦掻椀
・茸と鴨肉の薄葛汁
一、栗善哉(蕎麦掻)
一、蕎麦茶

もちろん両店とも、蕎麦屋の料理だから、蕎麦用の《つゆ》や《かえし》をよく使っている。
それから、最近は《蕎麦茶》《蕎麦焼酎》を置く店が増えてきた。
《蕎麦茶》は昭和50年代半ばごろから見られるようになった。
焼酎は、昔の物は臭くて近寄るのも嫌だったが、近頃はそんなのはあまりない。そのため十数年ぐらい前にいわゆる「焼酎ブーム」が起きてから、人気になった。
《蕎麦焼酎》というのは、主流の芋、麦の他に何かないかということから、蕎麦などに目を向けられてきたように思う。
なぜ焼酎は芋、麦が主流だったかというと、北部九州は万葉の古から酒処であったが、南部九州では酒が醸造できなかった。そこで主要な生産物である芋や麦で焼酎を造っていたからであろう。

話を戻して、この《蕎麦尽》の登場はいったいいつごろだろうか?
イヤ、その前に《蕎麦尽》の登場は必然であるということを言っておきたい。
というのは、「蕎麦屋の蕎麦」というのが、「寺方料理の蕎麦」が独立して生まれたものだからである。
そんなわけで、少し言葉を変えて「《蕎麦尽》として再生した」のは、といった方が正しいだろう。
参考になるのが、江戸時代の鳥居清広という絵師が描いた「江戸名物蕎麦尽」(1755年)である。
これからすると、江戸中期には《蕎麦尽》という蕎麦料理が存在し、「江戸名物」と言われていたことは間違いないようだ。
でも、江戸時代の《蕎麦尽》が、今の様な献立だったのたろうか。それが知りたくて、古い史料を漁っているが、文字だけではよくつかめない。
だからといって、再現を試みても、その時代の空気までは再現てきないことは江戸料理研究家の福田浩先生(江戸ソバリエ講師)もおっしゃっていることだ。
たぶん、ただコース仕立にするだけではなく、粋とか、風流とかの〝〟に満ちていたような気がするが、どうだろう。
たとえば、とした空気が食器にまで溢れている「ほそ川」風の料理だとか・・・。
とにかく、も少し《蕎麦尽》を食べて勉強しよう。

《写真》
「玉江」の行燈型板和布

《参考》
鳥居清広 画「江戸名物蕎麦尽」

〔文・写真 ☆ 日本橋高島屋野外講座 講師 ほしひかる