第194話 「先を立て、我も立つ」

     

食の思想家たち十六、石田梅岩

 

  過日、テレビを観ていたら、あるタレントが「この辺りは昔からうどん文化圏だ」というようなことを言っておられた。

 おっしゃりたいことは「ここはうどん圏であって蕎麦圏ではない」ということだろう。しかしちょっと厳しくいえば、文化とは都市で起きるものであって、田舎で発生するものではない。田舎の場合は文化ではなく慣習である。だから、「ここら辺りはうどん慣習圏であって蕎麦文化圏ではない」というのが正しい表現であろうが、しかし「文化」という言葉も広く使われているようだから、マアいいだろう。

 ☆石田梅岩(1685-1744)『都鄙問答

 「田舎の三年、京の三日」という諺がある。 謂わんとするところはお分かりだろう。都と鄙には明確な格差があるということである。この言葉は室町時代に生まれたというから、都の形成、ならびに都市文化が室町時代から始まったということだろう。

 続く江戸時代は、中央集権と地方分権が不思議に並存する時代であったが、参勤交代制のおかげで武家階級では都鄙の違いはさほどなかった。しかし、都の商人と田舎の農民つまり一般人の「田舎の三年、京の三日」的格差はそうとう大きかった。 

 その都鄙の差は現代でも存在している。訳あって、毎月九州へ帰郷している私はそのことをよく感じる。なにせ、地味な佐賀と大都会東京という対極地を往復しているから、地方とは? 都会とは? という問題がいつも私の頭の中に渦巻いている。

 石田梅岩の『都鄙問答』という題名の本に興味をひかれたのもそうしたことからだろう。

 「都鄙問答」というのは田舎者と、都会人との問答という意味である。石田はいったいどこから「都鄙」という発想を得たかといえば、自分自身が京の都へ出て来た田舎者(丹波桑田郡東懸村=亀岡市)だったからであることはまちがいないだろう。

  さて、私たち江戸ソバリエは日常の食べ物やその歴史に関心をもっているが、食物史とは人間の歴史でもあることはいうまでもない。ただ、その人間の歴史を見るとき、〝身分〟という厳しい制度があったことを意識していないと、誤った理解をしてしまう。

 たとえば、よく映画・テレビのドラマで「色街吉原では町人も武士もない」といって現代のごとき平等主義で描いたりしているが、そんなことはない。江戸時代は吉原であっても、武士の立場は強かった。

 時代別にいえば、人間扱いされたのは、平安時代までは貴族だけ、鎌倉時代からは貴族と武家、その他の庶民は犬畜生と同じであった。そんな庶民もやっと江戸時代に入ってから人間の仲間入りをした。これが事実である。

 しがって、衣食住も、文学も、思想もすべてのものが、平安時代までは貴族だけの芸術や文化、鎌倉時代からは武家中心の哲学や文化、そして江戸時代に入って町人の文化が展開するのである。

 町人文化が展開するためには、その前提として町人が精神的に目覚めなければならない。

 江戸の町人たちのそれは、たとえば平清盛や源頼朝が貴族に対抗したように、庶民としての、侠客幡随院長兵衛(1622-57)の抵抗が人間性の目覚めの最初だと思う。具体的には、幡随院長兵衛は義侠心という規範を創出し、町人の生き方を世に問うたのである。続いて、西鶴(1642-93)が人情という生き様を明示した。

 こうした先駆的な人の中に石田梅岩(1685-1744)がいた。彼は士農工商それぞれの意義を唱え、とくに経済と道徳の一致を説いて商人の価値を見出し、利益を追求することの正当性を強調したのである。

 すなわち、「商人のように見えて盗人あり、実の商人は先(相手)を立て、我も立つことを思うなり」と商人の生きる道を示したのであった。る

 同類の書に、後代の渋沢栄一(1840-1931)の『論語と算盤』や、マックス・ウェーバー(1864-1920)の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』があるが、梅岩は経済人とモラルについて言及したわが国初の人物である。

 こうした人たちの多くは1600年代の人たちである。そうした先駆的な人たちの規範が土壌となって、1700年代の町人文化、蕎麦文化が江戸で花開いたのである。

 参考:石田梅岩『都鄙問答』(岩波文庫)、渋沢栄一『論語と算盤』(ちまく新書)、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)、源了圓『徳川思想小史』(中公新書)、田尻祐一郎『江戸の思想史』(中公新書)、

「食の思想家たち」シリーズ:(第194石田梅岩、192 谷崎潤一郎、191永山久夫、189和辻哲郎、184石川文康、182 喜多川守貞、177由紀さおり、175 山田詠美、161 開高健、160 松尾芭蕉、151 宮崎安貞、142 北大路魯山人、138 林信篤・人見必大、137 貝原益軒、73 多治見貞賢、67話 村井弦斉)、

 

 〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる