第440話 東西の玉子焼き

     

~江戸の蕎麦つゆ~

 子供のころ、鶏肉が嫌いだった。
そのせいか、玉子焼きという物もどうでもよかった。かといって、とくに嫌いというわけではないから、母親が作ってくれた弁当の玉子焼きぐらいは食べていた。
そんな具合だから長じても、店でもわざわざ注文することはあまりなかった。
理由は、お茶がペットボトルで登場した当初、「たかがお茶を買ってまでして飲むのかヨ」みたいな気持があったように、「玉子焼きは家で食べる物、店でわざわざ注文して食べる物かヨ」という感じをもっていたからである。
だから、蕎麦屋の定番の一つだと知っていても、ずっと食指が動かなかった。
それが、ある日、都下にあった『雙柿庵』へ行ったとき、仲間が頼んだ玉子焼きを見たら、色はきれいだし、フワフワだし・・・で、すっかり気に入って注目するようになった。

という前置きはこのくらいにして、今日は東西の「玉子焼き」の勉強会が催されたのでご紹介したい。
役者は、築地「田村」と京都「菊乃井」の社長と、各店の料理長の揃い踏み。田村社長は時々お会いするが、相変わらず楽しい方だ。

先ず、東の「田村」の、出汁は浄水に道南産真昆布を入れて20~30分浸し、火にかけて、鰹節・めじ鮪節を加えてコトコト弱火で煮出し、二番出汁とする。
そして、本味醂を煮切り、上の出汁と砂糖・淡口醤油・濃口醤油を加え、沸かして灰汁を引く。
それを真四角の玉子焼き鍋で、向こうから巻きながら焼き色を付けて、四角に仕上げる。

続いて、西の「菊乃井」の、出汁は菊乃井本店の井戸水(軟水)に利尻昆布(香深浜
産1等検)を入れて加熱し、60℃で60分保つ。昆布を取り出し、85℃に温度を上げ、
枕崎産本枯節(血合い抜き)を一気に加える。10秒以内に一気に漉す。
そして、卵を割りほぐしたところへ、この一番出汁、淡口醤油を加え混ぜ合せる。
それを長方形の玉子焼き鍋で、手前から巻き、丸く仕上げる。焼き色は付けない。
出汁巻き玉子も茶碗蒸も、お吸い物のように出汁を楽しむ料理なので、塩も甘味
も入れない。しかしお吸い物よりも少し濃いめのイメージで味を付けるという。

さて、この東西の玉子焼きを各々口にする。両方ともさすがである。
しかしどうだろう。子供なら、砂糖入りの方を「美味しい」と言うかもしれない。

というわけで、ここからは砂糖のお話である。
伏木享先生(江戸ソバリエ講師)は「甘味と油味は美味しすぎて癖になる魔力をもっている」と言われる。
そういう意味では、自然崇拝の精神から生まれた和食は、食材を活かす料理なので、強い甘味とか油味とかに頼らない道を歩んできたというのが基本である。
それ故に、和三盆などは和菓子に使用しても、和食界においては酒や味醂のあま味を利用してきた。
だから、砂糖を料理に使うようになったのは、明治からだと一般的にはいわれている。
ところが、江戸ソバリエとしては、これで終わるわけにはいかない。

なぜなら、蕎麦つゆつゆ=出汁+返し(濃口醤油+砂糖))が完成したのは、江戸中期、遅くとも文化文政期といわれているが、そこに砂糖の存在があるからだ。
そういう目で砂糖史を見てみると、1808年に江戸大伝馬町の大坂屋勘兵衛・堺屋九左衛門ら30余軒によって江戸砂糖問屋が結成されている。
さらに八百啓介の研究では、長崎港に陸揚げされた輸入砂糖の三分の一は和菓子の原料として用いられたが、三分の二は町人の食料として消費されていたという。当時、長崎港は佐賀の鍋島藩と福岡の黒田藩が一年交代で管理していた。だから、長崎 ⇒ 佐賀 ⇒ 福岡 ⇒ のシュガーロードができたのだが、その輸入砂糖は江戸にまで及んでいたのだろう。
それが、「町人の食料」の一つである江戸蕎麦の蕎麦つゆだったのだというのが、今日の玉子焼き勉強会から得たことである。

《参考》
八百啓介「近世長崎における輸入砂糖とその流通」(『和菓子』9号)

〔文・挿絵 ☆ 江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる