第453話《ざる蕎麦》の起源
過日、ある若い人と蕎麦の話をしていたら「どうして《ざる》って言うんですか?」と疑問を投げられたので、「笊に盛られているから《ざる》ですよ」と答えると「ザルって何ですか?」と再び問い返された。私は戸惑いつつ「竹笊のことです」といいながら紙に【笊】と書いたら、彼は「ああ、そういう字を書くのですか! やっと意味が分かりました」と云った。
私は「日本語を知らない日本人が増えている」ことにおそろしさを感じた。
さて、今日は《出流 白そば》のお披露目会が開催されたので、栃木市の出流山へやって来た。ただ、本題の「出流 白そば」については、以前にこのコーナーの445話でご紹介したから、今回は出流山名物の《盆ざる》について述べてみたいと思う。
といっても、ただ大笊に沢山の蕎麦を盛ってあるのを皆(数名)で摘まんで、一緒に食べるというのが出流の《盆ざる》である。地元の人は「昔からそうして食べているので、珍しくもない」と言う。
そういえば、長野出身のソバリエ金井さんも、新潟・十日町市のソバリエ小林さんも、昔はそういう風にして食べていたと言い、また山梨の知人も同じことを言っていた。
だからといって、これが地方だけの習俗かというとそうとはかぎらない。
鎌倉時代の『慕帰絵詞』や、江戸時代の『江戸名所図会』にも、大笊に麺を盛ってある絵が描かれているから、出流の《盆ざる》は古の時代の習俗がきちんと残されたものとして理解すべきだろう。
ところで、蕎麦史では《ざる蕎麦》は深川洲崎の蕎麦屋「伊勢屋」が開発して売り出したと伝えられている。深川洲崎とは、今の東陽一丁目である。木場駅を下りると、沢海橋・弁天橋・洲崎橋があり、弁天橋の袂には洲崎弁天社がある。辺りは川や運河が縫うように流れているが、「伊勢屋は1791年の高波で流されて店は絶えた」という伝承に頷けるような地帯である。
さて、申上げたいのは、この《ざる蕎麦》と出流山で称している《盆ざる》は結びつくということである。
というのは、「十日町 小島屋」の小林社長(江戸ソバリエ)に『蕎麦春秋』誌の「暖簾めぐり」で取材したとき、《へぎそば》は昔、地元では皆で囲んで食べていたが、小林社長がお一人様用の器を製作し、お一人様用の《へぎ蕎麦》を商品として提供するようになったとおっしゃった。
とすれば、江戸中期の「伊勢屋」さんも同じことを考え、それまでの皆で摘まんだ「大笊」をお一人様用の「笊」に換え、お一人様用の《ざる蕎麦》を商品としたということも考えられる。
これが《ざる蕎麦》誕生の真実であろう。
よく、麺とつゆの関係は夫婦にたとえられる。だが、水切れのいい笊と冷たい麺もそれに負けぬくらいのいい関係であるといえる。
しかもこれは中国や朝鮮の麺にも、イタリアのパスタにも見られない、わが国独自のいい関係である。
《参考》
*《ざる蕎麦》関係の文献
『蕎麦全書』(1751)、『続江戸砂子』(1753)、『武江年表』(1791)
『慕帰絵歌』『江戸名所図会』
*「出流白そば」の件
・『danchu』11月号掲載
・平成29年11月6日(月) 『読売新聞』掲載、
・平成29年11月6日(月)栃木放送「ホットトピックス」のコーナーに電話出演。
〔文・挿絵 ☆ 江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる〕