第462話 寺方蕎麦の席に座ろう

      2018/01/05  

裏千家の上村宗紀(江戸ソバリエ:上村紀子)さまから、自邸での茶会席に招かれた。
相客は、深大寺執事の林田堯瞬(祇園寺住職)様と、上村さまの蕎麦友(松田綾子さま・本多恵子さま)と、茶道具関係の方の、計五名だった。
3時に仙川駅にお迎えに来て頂き、3時半から茶会が始まった。
茶会は、相客情報を前もってお伝えしておくことや、お迎えに行くことから、すでにご接待が始まっていると聞く。もちろん上村さまもそのことをちゃんと心得ていらっしゃる。
お宅に着いて、お部屋に入ると炭の匂いと、お湯の匂いが漂っていた。

先ずは、【前茶】を点ててもらい、吸茶で頂く。古茶だそうだが、飲むと、渋い! 「久振りに、お茶らしいお茶を味わった」と思った。
味覚には、甘・鹹・辛・酸・旨・苦・渋の七味がある。そのうちの渋味は西洋人にはあまり通用しない。なぜなら、それはアジアに多い渋柿から分かった味だから、アジア人特有の味覚だそうだ。だから渋味の英語表現は難しい。そして、お茶が中国から伝来した当初は〝苦い〟と表現されていたが、江戸初期ごろから日本人は苦味と渋味を分別し、お茶を〝渋い〟と言うようになった。以来、お茶は長い間、渋い飲み物だった。それが、昭和末から平成にかけてペットボトルの冷たいお茶が流行るようになると、喉を流れやすいようにソフトドリンクになって、渋いお茶が敬遠されるようになった。しかも、この事はお茶の問題だけではおさまらず、食べ物全般から渋味が一掃されつつある。そんな思いの中で頂く古茶の渋さに、「お茶らしいお茶だ」と感じたわけである。
さて、それから【茶壺の口切】が始まった。壺は呂宋渡来だという。新茶の香りが席まで届いたが、口切の行事はめったに体験できるものではないらしい。亡き母も裏千家だったが、生徒さんたちがわが家に通っていたのを偶に見ていても口切の場面などなかったから、今日は貴重な体験だった。

続いて、口切の【祝膳】を頂く。
一 雑煮 (蕎麦搔餅・銀杏・日の出人参・鶴大根・里芋・結び昆布・糸鰹・柚子を入れた白味噌仕立の京風雑煮)
一 柿膾 (大根・人参の昆布〆を干柿で擦る。)
一 冷酒
水屋では石臼でお茶を挽く音がする。粉臼は右に回し、茶臼は左に回すというが、やはりそうだ。茶臼の石は極め細かい宇治朝日山産が最高らしい。それは黒くて重い。とても女・子供・年寄は動かせそうにない。
続いて、ゴロゴロと篩の音もする。臼で挽いた粉茶をさらに細かく篩う。ここが日本人の繊細なところである。

いよいよ、席を変えて今日の主役の【濃茶】である。
やはり、炭の音、お湯の音がする。どこか懐かしく、心が温まる。その音の間から、微かに香「黒方」の匂いが漂ってくる。
亭主が「粗飯を差し上げます」と言うと、朱の懐石膳【精進料理】が運ばれる。
一 楪子 (大徳寺麩・白百合・木耳・銀何の白和)
一 豆子 (小粒の梅干が入っている。冷酒が注がれる。)
一 平椀 (銀杏豆腐・椎茸)
一 引重 (上段が精進の焼物の鰻擬、下段が奈良漬・赤蕪・沢庵の御漬物)
一 七種の菓子
一 濃茶 (禾目天目)
前茶は渋かったが、どろんとした濃茶のあま味が口の中に広がった。「美味しい」と感じた。器は禾目天目茶碗、最近は天目茶碗との縁があるのか、よく出会う。
このときに使われた茶杓が「千道安」というから、これには驚く。道安というのは、利休の長男、つまり最初の妻の子である。二度目の妻には少庵という連れ子がいた。道安は、父と義弟(道安と同年齢)との折合がつかずに家を出た、と伝えられている人物である。
私は、現代の日本人の精神構造をつくったのは千利休と徳川家康だと思っている。利休は日本人の自然崇拝という美の基準を創出し、家康は昔流にいえば「親方日の丸」、今風にいえば「一党支配」に甘んじる精神を醸成したといえるだろう。そのうちの利休流自然崇拝は和食の柱として存在感を示しているのはいうまでもないが、その一方、彼の家庭では「そうだったのか!」と千家の人間味を感じさせるのが道安の存在である。そんな奇跡のような道安の、節のある茶杓の渋い艶が美しかった。

【薄茶】
三度席を変えると、精進落しの【懐石膳】が運ばれた。
一 ステーキ
一 刺身
一 鰒と唐墨
一 蕎麦切
「薄茶」は献上唐津(銘「阿希風乃」)で頂いた。献上唐津は、上品でモダンな器である。私が「佐賀出身だから、用意した」と上村さんが仰った。その気持に心が打たれる。まさに「客の心になりて亭主せよ。亭主の心になりて客いたせ」の精神そのものである。
締めは上村さまが自ら打った蕎麦切である。それを頂きながら私は、『慈性日記』のある場面を思い出していた。
日記の作者である慈性とは、あの江戸蕎麦切初見(1614年)の天台宗僧侶として蕎麦界では知られている人物である。彼は、その後の1626年に東山の尊勝院における茶会に、縁者である東條安長・花房正榮・内藤采女を招いて、後段に蕎麦切を振舞っている。私は一瞬、尊勝院の茶会に列席しているような錯覚に入っていたのである。
こうして、全席が終わったのは夜九時、五時間半の茶会であった。
私たちは、仙川駅まで送ってもらって、お別れした。

翌日御礼メールを送ると、「江戸ソバリエ認定講座を受講したとき、初めて深大寺のお蕎麦を食べている絵を拝見し、あの前後にお茶が出されている・・・。と、自分なりの空想の世界に入りました。その後、何とか形にならないかしらと、ずっと構想を練っていました。」とのご返事を頂いた。
「深大寺のお蕎麦を食べている絵」というのは『江戸名所図会』「深大寺蕎麦」の場面である。
お蔭さまで私も、昨日の懐石膳に、深大寺や尊勝院の寺方蕎麦の席に座しているような気分を重ねることができた

《参考》
*上村邸茶会
*斎藤史子『千道安』(鳥影社)

〔文・写真(石臼と篩) ☆ 江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる