第527話 光圀公の麺

      2019/01/31  

日本一の蕎麦「常陸秋そば」の里として知られる常陸太田市から講演を依頼された。
上野から特急「ひたち」で水戸へ、そこから水郡線に乗り換え、さらに上菅谷で乗り換えて常陸太田に到着。駅には、この度のことで声を掛けてくれたK名人が車で迎えに来てくれた。
この常陸太田には何度も訪れているが、最初は平成15年(2003)のことだった。ただそのときどうやって来たのか全く記憶がない。その最初というのは、近くの金砂神社だった。平安時代から続く神事「金砂田楽」を伝える東西二つの金砂神社のことであるが、この二社の大祭礼は何と驚くべきことに72年に一度しか開催されないという。それを観てみようということでやって来たわけだが、次の開催は2075年というわけだから何ともスゴイ話だ。
とにかく、ここに来るには乗り継ぎが多い。なので早い方がいいだろうと考え、Kさんのお迎えのだいぶ前に到着し、時間を見ながら水戸光圀の隠居屋敷「西山荘」に立ち寄ってみた。それというのも、水戸光圀公に対する茨城県民の畏敬の心はあついから、少しでも光圀公について知っておきたいと思ったからだ。
屋敷の敷地は広かった。ただ残念なことに今の季節は冬、枯れた庭が寒々しかった。緑の季節にあらためて訪ねてみたいものだ。
この西山荘に光圀は隠居後の1691年から1700年に没するまで住んでいた。
その光圀は麺類をよく食べていたことが、近くにある久昌寺の日乗上人(1648~1703)の日記に記載されている。
*1691年 光圀が西山荘で蕎麦を打って食べた。  
光圀が蕎麦を食べたのは江戸蕎麦が完成する前の江戸初期のことであるから、蕎麦の形としては寺方蕎麦様であったろう。
*1697年 光圀が中華麺を食べた。
「これが日本初の中華麺か?」と話題になることがある。
日本初の鹹水麺については、すでに麺類史研究家の伊藤汎先生が室町時代(1488年)の京・相国寺内において食された「絰帯麺」は鹹水麺であったことを著書の中で述べられている。ただ麺汁については不明だ。たぶん僧たちは和式の汁で鹹水麺を食したのであろう。
ところで、光圀に1665年に招聘された明国からの亡命学者朱舜水(1600~82)は、明国人らしく中華麺が好きだったらしい。彼は中華麺作りの道具を持っていたらしく、光圀に中華麺作りを指導したといわれている。時代的には油脂を使う料理法もわが国に伝わっているから彼らは鹹水麺を肉汁で食したことが考えられる。
考えてみれば、麺と汁は一対の食べ物である。
室町時代の和式汁+鹹水麺は中華麺といえるだろうか?
やはり、油脂汁+鹹水麺の方が、日本最初の中華麺とすべきであろう、と思う。

会場で名刺交換をさせていただた常陸太田市長さんは「舜水の故郷浙江省余姚市と茨城県常陸太田市は姉妹都市となって日中国交の架け橋となっている」とおっしゃった。

それを伺い、こんな姿が頭を過った・・・。
さる日のこと。水戸光圀・朱舜水・久昌寺日乗の三人は、西山荘で麺を食いながら、これからの日本国はどうあるべきかを語っていたのだろうか。あるいはこれからのアジアについて語り合っていたのだろう、と・・・

〔文・写真 ☆ 江戸ソバリエ協会 ほしひかる