第573話 大 塚 乱 歩-②
償う
573話に登場する講道館四天王の一人のお孫さんのお宅の、右辺りには戦後の右翼の大物が住んでいた。私が引っ越して来たばかりのときはまだご存命で、杖を供に歩く好好爺の姿があったが、あの人があの大事件関係で世間を騒がせた人物だとはとても見えなかった。
その大事件というのは、今では歴史の一つとなった政治家の暗殺である。
近くの床屋さんがこんな話をしてくれた。「いつも来てくれる若いお客さんが1週間もしないうちにまたやって来たので、どうしたの?と訊いたら」「はい。ちょっと旅へ出ますので」と言ったという。
翌日、床屋さんは新聞を見て腰を抜かすほど驚いた! 事件の実行犯がその若者だったのである。
当時の彼は、私より一歳上の17歳だった。彼は「やったことは償う」と言い遺して少年鑑別所で自死した。
その床屋さんは今は廃業されているが、時々「田舎から野菜が送ってきたから」と言ってお裾分けをしてもらうことがある。送り主の田舎の親類の方も、もう農業はやっていないという。それでも自家用の野菜だけは育てているらしく、「あなたにはできた物を送ってやるよ」と言って送ってくるのだという。それを彼女は杖をつきながら持ってきてくれる。今日もまた、床屋さんに旬の筍を分けてもらった。今日は、私の大好きな筍ご飯にして頂こうか。
こういう彼女だからこそ、17歳のあの少年は心開いて「旅へ出ます」と少しだけ吐露したのではないかと想われる。
今日はいい天気だ。大塚のこの辺りにそういう人たちがいたのかと疑いたくなるほど、並ぶ大中小のマンションには穏やかな陽が射している。
そんな陽射の中の都市景観は、いつも夢の跡でしかないように見えてくる。
〔文 ☆ エッセイスト ほしひかる〕