第576話 魅惑の完熟胡椒切
「カンボジア産の完熟胡椒がありますけれど、お蕎麦で使えますか?」
お世話になっている料理研究家の冬木れい先生からそう尋ねられた。「カンボジアの倉田農園に行ってきたので、カンボジア産の良質の完熟胡椒があるから」ということらしい。
《変わり蕎麦》の一つである《胡椒切》は資料で見たことがあるが、まだ食したことはない。念のために、更科を得意とする蕎麦屋さんなどに確認したところ、皆さん「経験がない」と言う。そこで巣鴨の「栃の木や」さんに相談したら、「やってみる」とおっしゃった。
そして数日して「できたから試食を」との連絡を頂いた。
さっそく、冬木先生や興味をもった人数名が集まった。
胡椒の割合を尋ねてみると、更科粉1.2㎏に対し、完熟胡椒は炒ってから12gを練り込んだという。
一口で、「美味しい♪」と感激したので、そのままつゆを付けずに笊の半分ぐらい食べた。
以前に歌手の高遠彩子さんとある番組で対談してとき、彼女のつゆを付けずに食べる姿を見て、つゆを付けずにどこまで食べるかによって蕎麦本来の美味しさが測れるというやり方を知った。それから時々試している。もちろん十割か、二八かでちょっと違うことはあるが。
今日の《胡椒切》はといえば、お馴染みの《桜切》《蓬切》などの‘和’の《変わり蕎麦》とは全く別物の、言ってみれば‘大人の味’だと感心した。
また、この日《鴨鍋》も供されたが、「鴨に胡椒」もよく合っていた。鴨汁につゆを注いで胡椒を振ると、何杯でも頂きたくなる。
とにかく、《完熟胡椒切》は大正解だった。すぐに冬木先生が「頂く会」を企画された。しかも完熟胡椒の生産者の倉田農園の倉田さんがカンボジアから一時帰国される日に合わせて実施しようということになって、冬木先生を中心に声をかけたところ25名様も集まってくれた。
当日は、私が乾杯の音頭をとるはめになったが、乾杯の後に席に戻ったときの倉田さんの提案にちょっと驚いた。
「ビールに胡椒を一振、かけてみて!」
いうまてせもないが、コップという物はやや長くて口が狭い。だからコップを唇に傾けたとき鼻の先に胡椒の香りが流れてくる。
「これはいい」と思ったので、各テーブルの人にお勧めしたところ、大好評だった。
主役である今日の《胡椒切》も絶品だった。胡椒のあま味が美味しいから、今日もつゆを付けずに半分以上食べられた。その後に微かな刺激がやってくる。
このあま味と刺激の度合を‘大人の味’と称しているわけであるが、それも「更科粉と完熟胡椒の絶妙な合が機能を果たしているのだろう。
「今日は衝撃だった」と倉田さんもおっしゃった。
なぜかというと、「胡椒は普通炒らない。香りが飛んでしまうからだ。でも栃の木やさんは炒ったから、かえって完熟胡椒の甘味を引き出せた。これには驚いた」というわけだ。
もちろん《鴨+胡椒》の方も最高だった。
《鰻+山椒》《焼鳥+唐辛子》《ステーキ+山葵》・・・、肉類に香辛料はよく合う。香辛料というのは文字通り‘香り’と‘辛さという刺激’である。
《焼鳥には塩とレモン》と言う人がいるが、それもいいだろう。ただそれは‘鹹’と‘酸’という味覚を求めてのことであり、‘香り’と‘刺激’とは別の世界である。
だから「ほれ、この鴨汁にレモンと汁を入れてもたいしたことはないだろう」と思いながら、《鴨汁+蕎麦湯+胡椒》を啜ると幸せになる。
今日の評価としては、林幸子先生は(江戸ソバリエ講師)は「前々からクラタペッパーのファンだ」とおっしゃっていた。高野美子さん(江戸ソバリエ・江戸東京野菜コンシェルジュ)は「素晴らしさに目を見張った。自分の講座でも使いたい」と言う。福田浩先生(江戸ソバリエ講師・江戸料理研究家)は「江戸時代に《胡椒飯》という逸品があったが、ご飯に合うということ和食に合うということだ」とおっしゃった。友人の佐野弥生子さんがフェイスブックで報告されたら、「羨ましい」がたくさん寄せられた。
胡椒の会だけに刺激的な会であったが、倉田さんから「栃の木や」さんに「日本を離れる前にもう一度《胡椒切》を食べさせてほしい」と連絡が入ったという。
〔文 ☆ 江戸ソバリエ協会 ほしひかる〕
写真:倉田さんと