第一人者が語る 【 日本の糖質制限食品の歴史② 】

      2019/09/19   執筆者:auc_shonin

~糖質制限食品との出会い、その前に~

私が糖質制限食品と出会ったのは、2001年、アメリカのバージニア州に留学中の時でした。

 

■何故、アメリカに留学?

私が高校生の時、HIVが認知され始め、間違った情報が広まり騒がれていました。そんな時に、短期留学したアメリカ(ミネソタ州)のホストファミリーが、HIV患者とその家族へのケア・ボランティアをしていました。

まだまだ日本では、「HIVウイルスは、空気感染・接触感染する」と騒がれている中、ホストファミリーと一緒に、HIV感染者と会い握手をしたこと、HIV感染者の旦那さんと非感染者の奥さんが、ちゃんとHIVウイルスについて学び、感染路を断つことにより、SEXも普通に行っている現状を知り、たぶん、高校生では誰よりも早くHIVの正しい知識と最新情報を学んだと思います。

この経験から、大学の看護学部に進み、「HIV専門の看護師になりたい」との思いから、最新の情報が入ってくるアメリカへ留学することにしました。

 

■何故、アメリカのバージニア州を留学に選んだ?

アメリカ留学の準備の時に、アメリカ在住の知人から、「英語を話せるようになりたいなら、日本人留学生が少ない地区の大学に行くほうが良い」とのアドバイスから、ちょうど、母の友達のお姉さんがアメリカ人と結婚してバージニア州に住んでいたので、その方を頼りに、バージニア州のノーフォーク(Norfolk)の大学に留学を決めました。

東海岸のちょうど真ん中、ワシントンDCの南隣のバージニア州。
アメリカの最初の13州の1つで、アメリカの南北戦争の主戦場、ネイティブアメリカン(インディアン)が多くポカホンタスの出身地、アメリカの歴代大統領の一番多い出身地、マッカーサーが最後に過ごした地、アーリントン墓地、CIAの本部の地、ペンタゴン、アメリカで一番大きい・世界で一番大きいネイビーベース(海軍の基地)でもあり。歴史的建造物も多く、日本の奈良・京都のようにアメリカ全土から小学生や中学生が旅行に訪れる地でもあります。

 

■留学中に起こったアメリカ同時多発テロ

留学中に起こった一番心に残った悲しく・辛い出来事は、2001年9月11日に起こった、『アメリカ同時多発テロ』です。

その日は、朝から大学で授業を受けていました。午前9時頃、教室に大学の事務局の方が入って来て、

「ワールドトレードセンターに飛行機が衝突して、他にもハイジャックされた飛行機が数機いるそう。急遽、大学は休講になります。早く帰るように。」と涙ながらに話すと教室を出て行きました。

教室内は、しばし「シーーーン」。
教授も生徒も、何を言っているのか?何が起こっているのか?
すぐには理解できませんでした。
「ありえないでしょう。嘘でしょう」との思いで、教室を出ると、大学内のあちこちのTVの前に生徒が群がり、みんな、涙を流しながらニュース速報を見入っていました。
TV画面には、まるで映画のワンシーンのような生中継画像が映っていました。

そして、生中継のTVのアナウンサーの悲鳴と同時にワールドトレードセンターの北棟が崩壊、生徒も私も、悲鳴を上げ泣いていました。

その日から私が住んでいたバージニア州のノーフォークでは、アメリカで一番、世界で一番大きなネイビーベース(海軍施設)があるため、次にテロで狙われるならここかもしれないとノーフォーク全体が緊急体制に入りました。

  • テロ後3日間、大学は休講。大学が始まると、大学の門、各大学の建物の入り口にライフル銃を構えた軍の隊員さんが立ち監視、校舎内も巡回。
  • テロ後2週間、ノーフォーク在住者は夕方5時以降の外出禁止命令により、レストラン含めすべてのお店も夕方5時以降の営業を停止。夕方5時以降の街の街灯は全てオフ。
    低空飛行で軍のヘリコプターや飛行機が空からの巡回を夜中中行っていました。
  • テロ後2週間以降~約1か月は、ノーフォーク在住者は夜10時以降の外出禁止が続きました。
  • テロ後約2か月~3か月は、ライフル銃を構えた軍の隊員さんが百貨店やスーパーでも、公共施設でも、街中どこでも巡回していました。

 

また、アメリカの同時多発テロの主犯の方など4名が、学生ビザを得てバージニア州からアメリカに入国していたことが分かると同時に、バージニア州の移民局の規定が真っ先に厳しく変更なりました。

アメリカ同時多発テロの後に留学してきた外国人は、銀行口座も持てない、車の免許も取れない、アパートの契約も出来ない、、、、、、など、本当に大変でした。

アラブ人(イスラム教徒)の犯行者だったため、アメリカ全土では、行き場の無い怒りや悲しみが、アラブ人やイスラム教徒へ向けられるようになり、差別や偏見が強くなりました。

イスラム寺院の窓ガラスが割られたり、アラビア人というだけで嫌がらせにあったり、暴行にあったり、、、殺されたり、、、

これらの状況を察して、アラブ首長国連邦は、自国民をアメリカからの一時強制帰国を命じ、私の友達も数名、自国へ帰って行きました。

アメリカ同時多発テロ後3か月以内に、アメリカ国内で、確か50人ぐらい、アラビア人というだけでテロとは何も関係なく、無実の人が殺され亡くなられました。

 

 

アメリカ生活の中で、悲しく、辛いアメリカ同時多発テロを身近で体験した時に、戦争への恐怖と怖さを身をもって感じました。
同時に、悲しみが怒りに変わっていくアメリカ国内の雰囲気も体感しました。

『憎しみや怒り、悲しみは、新たな戦いをつくり出し、その戦いがまた、新たな憎しみや怒り、悲しみを生む』

この循環を止めるために、私が出来ることはあるのだろうか??
私1人が世界平和を創ることも、私1人の声が届くこともない、、、、、
でも、自分の足許の平和が出来たなら、両親、友達、職場、社会への感謝と思い合う融和の世界を築けたなら、、、、
それが、多くの他の人の足許の平和と繋がり、

点が線になり、やがて平面になる。
これが私が出来る世界平和への行いの1つなのかなと思いました。

 

糖質制限の髙森由香