第592話「人は一代 名は末代」
『極付 幡随院長兵衛』
久々の歌舞伎座だった。観客席は満員。出し物は「極付 八幡随院長兵衛」である。
幡随院長兵衛って何者? いまの人たちはご存知だろうか?
江戸初期は徳川幕府の権威権力がまだ確立していなかった。そのため幕府に対して反抗する武士たちがいた。ただそれは政治的反抗といった志のあるものではなく、平和になって、退屈になった武闘派侍の鬱憤を発散させているにすぎなかった。分かりやすくいえば、庶民など弱い者への乱暴狼藉であった。そういう旗本ヤクザのことを世間では「旗本奴」と呼んでいた。
そうした乱暴旗本に対抗する男たちが現れた。その筆頭が浅草花川戸で口入れ稼業をやっている幡随院長兵衛(1622~50)であった。彼は肥前唐津藩士塚本伊織の一子といわれているだけあって、武芸に優れ、何よりも仲間や子分や町人たちを庇う義侠心に満ちていた。
とうぜん旗本奴と町奴はぶつかって、‘男伊達’を競い合った。
‘男伊達’とは「男を立てる」が名詞になった言葉である。喧嘩の度に長兵衛は町奴の親分として名が売れていった。それが気に入らない旗本奴の棟梁水野成之(1630~64)は「両者手を打とう」と自邸に誘った。長兵衛も子分たちもそれが罠だと分かっていたが、呼ばれて行かないとなれば、男が廃る。長兵衛は「人は一代 名は末代」の啖呵を切って水野屋敷へ一人で乗り込み、惨殺されてしまう。
旗本奴の水野成之の祖父は備後福山藩主、さらに遡れば家康の血筋の者。乱暴者とはいえ、幕府に反抗したわけではない。よってこの事件、水野はお咎めなしであった。
しかしながら、数年後乱暴狼藉が過ぎて評定所へ召喚、そのとき着流しの伊達姿で出頭したため、今度はお上への不敬という理由で切腹・家名断絶を命じられた。結局、啖呵どうりに、「男伊達 幡随院長兵衛」の名は末代となった。
しかし、「人は一代 名は末代」の台詞も今は通じないか!
そういう若い者のために、江戸というのを見てみよう。
18世紀半ばから‘おきゃん’という言葉が生まれた。続いて18世紀後期から‘通’が、18世紀末から‘あだ’が、19世紀前半から‘いき’が、19世紀後半から‘いなせ’という言葉が。これらはみな、町人の《生き方》を表した言葉であった。
これまで町人・庶民に生き方なんかなかった。それが江戸時代になると、町人たちは自立して、生き方を模索し始めた。そしてそれが現代の《市民意識》へと続くことになるのだが、その先駆けが江戸初期の長兵衛の生き様‘男伊達’だった。
こういう世情を背景にして、寺方蕎麦は町方の蕎麦=江戸蕎麦へと変貌していったのである。
〔文・写真(日光江戸村) ☆ 江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる〕