第604話 北京・貴州紀行 9
~なぜ栽培蕎麦は起原地から旅立ったのか?~
「麺類と箸は切っても切れない関係にある」と言ったのは安藤百福だ。
だから私も箸に注視しているが、そんなことから私が「箸や橋に関心がある」と言うと、たいていの人が「ダジャレですか」と笑う。そこで「あっちの端とこっちの端をつなぐのが橋、あの食べ物とこの口をつなぐのが箸。鳥の嘴クチバシも、二階への梯子ハシゴも、階キザハシも、みんな同じ語源」と言うと、たいていの方は軽口を言ったことに対して戸惑った目つきをされる。
まあとにかく、私は国内外で珍しい橋に出会うと熱心に写真を撮ったりする。
この秋は、中国貴州省の貴黔高速公路を走っていた。すると度肝を貫くような長大橋と出会った。それは畢節市~清鎮市に架かっていた。真っ赤と真っ白という対照的な色のコントラストに幾何学的デザインが強烈だった。橋の長さは800m、水面からの高さは434m。
眼下を流れる鴨池河にちなんで「鴨池河大橋」というらしい。この鴨池河は、われわれが宿泊した貴州省畢節市咸寧の、烏蒙山東麓に発した三岔河と、畢節市赫章県を発した六沖河が合流している。そして河は貴陽市息烽県で烏江(古称は黔江)と名を変え、貴州省を東西に貫いて銅仁市から重慶市に入り、やがては長江となる。
ところで私は、出会いが心に残ったり、衝撃を受けたりしたものはなるべく絵にすることにしている。今回も天上の大橋「鴨池河大橋」を描いてみたが、あまり上手くいかない。それでも描きなが貴州というクニをいろいろと想うことはできた。
貴州省は海抜2000mの山国。聳える山と深い谷と大河が、人の往来を拒絶している世界である。隣の雲南省も似たようなものであるが、そんな秘境の地から脱して栽培蕎麦が中国大陸を北上することができたのはなぜか? と、前々から不思議でならなかった。
ところが、この大きな山河の絵を描いている間に思い出したことがある。蜀(現在の四川省辺り)の、あの諸葛孔明は魏(河南省)と戦う兵隊を通すために絶壁に杭を打って板を敷いて数百キロメートルもの桟道をを作ったという。その戦争を三国史では「北伐」といっているが、結局諸葛孔明は五度の北伐でも魏の曹操に勝てなかった。
ただ、孔明が遺したこの桟道は、写真で見るだけでも、足が竦み、目が回るような断崖に作られている。おそらくこの橋を作るだけでも尋常でない犠牲者が出たのだろう。
しかし、私はこれを見て栽培蕎麦の伝搬回廊が見えてきたように思えた。
つまり、秘境というのは基本的には人の往来を拒む自然要塞であるが、戦争もしくは権力野望というのはそれを越えるのではないかということである。
たとえば、この孔明の桟道だ。四川省から河南省へ向かうために、孔明は自然の要塞を克服しようとした。
雲南の昆明人あたりが手掛けていた栽培蕎麦もまた、そのような人間の野望にしたがって起原地の雲南省を脱したと想われる。
ただ、実際に栽培蕎麦がここを発ったのは、4000年ぐらいの前の太古だろう。だから、日本では3500年前の岩槻遺跡から栽培蕎麦の実が見つかっている。
後世の孔明の桟道の話はほんの一例にすぎないが、そのような野望回廊を通って栽培蕎麦はわが国にまでやって来たのである。
そして、戦争が終了すると、深い山河はまた元に戻って交流を閉ざした。人々はそこを秘境と呼ぶ。
しかしながら、現代になって、最新工学を駆使した「鴨池河大橋」が再び架けられた。橋が架かれば人や物が大量に移動する。それは往古の桟橋の役割と同じである。
現在、世界長大橋22本のうち10本は中国に在るという。
長大橋の建造には、高い経済力と技術力が要る。その礎には希望・意欲・野望がなければならない。現代中国にはそれがある。
〔文・絵 ☆ 江戸ソバリエ北京ブロジェクト ほしひかる〕
写真:高橋正(車中か