第623話 カレーなる物語
先日、北京プロジェクトでお世話になっている方と大塚の蕎麦屋「岩舟」で会食した。その方は先輩のお二方とご一緒されたが、その中のお一人に鹿児島出身の方がおられた。話をうかがっていると、その方は高校生のときまで見よう見真似で蕎麦を打ち、また《カレーライス》の粉は小麦粉ではなく、蕎麦粉で作っていたとおっしゃった。初めて聞いたことなので、北京プロジェクトの仲間にも知らせてみた。すると高橋龍太郎さんから「念のためにネットで見てみたら、誰かもやっているよ」との情報をいただいた。
そば粉を料理に使ってみようと、粗挽きそば粉を衣に使った牡蠣のソテーとそば粉をルーに使ったレンテハスカレーを作ってみました。
いわれて私もチェックしたら、福井の製粉会社の加賀社長さんだった。
これまで何度がお会いしているので、メールを出したところ加賀さんも驚いておられた。
とまあ、こんな偶々の出来事があった。
それにしても日本人は《カレーライス》が大好きだ。
CNNが調査した「外国人が好きな日本食」の中で日本の《カレーライス》はベスト9位になっている。もう《カレーライス》は外国人から見ても日本食なのである。
そもそも日本人が《カレーライス》を食べるようになったきっかけは、幕末から明治初めのころ来日外国人が食べているのを日本人が見たり、福沢諭吉や仮名垣魯文などの知識人が一般に紹介したりしていたことから始まるだろう。
本来、淡い味が好きな日本人は、こういう激辛を好まなかった。胡椒でも唐辛子でもほんの少ししか使わない。それが日本の薬味の美学であった。
しかし一方では島国日本は外来物に異常なくらいに憧れる。だから、みんな関心を寄せた。
そんなところへ、陸軍幼年学校や札幌農学校、さらに海軍(明治41年)などの食堂がやり始めた。これが大きかった。《カレーライス》というのは、日本の伝統的な《汁かけ飯》と似たところがあった。いわば一膳飯であるが、それは食堂メニューとしてはまことに便利だったのである。
そして、いよいよ明治10年に東京の米津凮月堂が日本で最初のレストランメニューにした。今の東京凮月堂である。また神戸のオリエンタルホテルなどもメニューに加え始めた。(昨夜、内田百閒の本を読んでいたら、このオリエンタルホテルに泊まった・・・みたいな場面があったので、オッそうかと思ったところである。)
さらには明治36年に日本で初めてカレー粉が販売された。大阪の「今村弥」や神田「一貫堂」である。「今村弥」は現在のハチ食品㈱、「一貫堂」のことはよく分らないらしい。
ところで、われわれ馴染みの蕎麦界はどうか?
江戸中期ごろは「趣味の蕎麦」と‘粋’がっていたが、江戸の末期には屋台などの駄蕎麦が登場して俗化していった。それから明治維新を迎えて庶民の活動が活発になると、それに呼応すべく蕎麦屋は丼物を扱うようになって広く大衆化していった。だから現在の大衆蕎麦屋のほとんどが、この明治時代に誕生した。
その詳細は、ここではふれないが、とにかく大衆化の中で先述の学校などの食堂で扱っている腹いっぱいになれるという《カレー》なるものを何とか取り入れようする店が現れた。
明治40年、早稲田「三朝庵」が《カレー南蛮》を売り出した。
明治42年、目黒「朝松庵」が大阪で《カレー南蛮》を始めた。
明治43年、食料品店「田中屋」が蕎麦店向けのカレー粉「地球印軽便カレー粉」を販売。現在の㈱杉本商店である。
というわけだが、皆さんも蕎麦屋の出汁入り《カレー》はご承知のことと思う。ただ「三朝庵」は最近閉店した。
現在、都心の老舗では「やぶ久」の《カレー南蛮》が名物になっている。過日の日本テレビの番組「ZIP!」でも女優の上白石萌歌さんは美味しそうに食べておられた。彼女はずいぶん蕎麦がお好きのようで蕎麦屋めぐりのノートもとっているということだったが、嬉しいことだ。
話を戻すと、その後も日本の《カレーライス》は発展していった。
大正7年、浅草「河金」で《かつカレー》を始める。「河金」の《かつカレー》は今でも有名だ。昭和2年、深川「名花堂」が《カレーパン》を発売。当店は現在「カトレア洋菓子店」と称している。この《かつカレー》や《カレーパン》は日本ならではの発想だろう。
それにしても日本人が気安く《カレー》を料理できるようになったのは、現ハウス食品などの即席カレーの発売が大きいだろう。
しかしそうした大衆化を嘆いて、新宿「中村屋」が「純印度式カリー」を発売した(昭和2年)。中村屋は本郷にあったころはパン屋だった。《クリームパン》は中村屋の創作だ。新宿に行ってから、紀伊国屋や「大庵」の創始者たちとともに現在の新宿の街を作った。前回の朝ドラ『なつぞら』では少しその辺りのことが挿入されていた。
オーナーの相馬愛蔵・黒光夫婦は文化人であり、各界との人間と付き合っていた。その中に日本に亡命して来たインド独立運動の志士ラース・ヒバーリー・ボースという若者がいた。後に彼は相馬の娘と結婚したが、彼は日本の《カレーライス》に落胆し、《純インド式カレーライス》の開発を義理の親に進言したという訳である。続いて、資生堂パーラーも高級カレーをメニューに加えた。
かくて、カレー業界は高級と大衆市場を手にしたのである。
なぜ、くどくどとカレーの物語をしたかというと、蕎麦界に《カレー南蛮》があるからということもさることながら、それよりも今まで耳にしたり、目にしたことを並べてみると、日本の食物語になると思ったからである。
そして綴っていて思ったが、文中に出てきた《カレーパン》《クリームパン》に《餡パン》などの菓子パンや、日本で初めての主食用パン《食パン》を売り出した横浜の「ウチキパン」などについてのパンの日本化を物語れば、それもまた日本の食物語になるだろうと思うけれど、それはまた同じパターンになるだろうから、まあ控えておこう・・・。
〔文 ☆ エッセイスト ほしひかる