第652話 天麩羅は、音か、温度か、天麩羅か

     

~ こういうときこそ蕎麦屋巡り ~

 ここ大塚駅前の「岩舟」は、カウンター席の方が多く、卓席は4人席が二つだけ。蕎麦屋としては珍しいが、そこが「女性でも一人で来れる」と評判だ。

  店は横浜一茶庵系だから、蕎麦店通の方ならだいたいどんな店か想像がつくだろう。店内はジャズが流れ、窓の外を観るとゆっくりと走る都電と、5月ごろには路線脇の薔薇が満開という景観だ。

 その中で頂いた料理は、八丈島明日葉のお浸たし、京の湯葉、桜海老の掻揚げ、穴子の天麩羅、鴨の陶板焼き、常陸秋そば、など。とくに《桜海老の掻揚げ》は桜海老の甘さと熱温がおいしかった。

 先日訪れた「蕎ノ字」は天麩羅屋式のカウンターだから、目の前で揚げ、カウンター越しにサッと天つゆに入れてくれるから、ジュッという音がおいしかった。

 しかし、この「岩舟」はお客さんにくつろいでほしいと思ってカウンターにしたというから、天麩羅は厨房で揚げる。だが三、四歩ていどのカウンター席へ瞬時に供することができるから、温度をおいしく味わえるというわけだ。

 このように、店のデザインと料理法は直結していると思う。

 また天麩羅そのものがおいしい店もある。両国「ほそ川」、水道橋「松翁」などはよく知られており、新しい所としては谷中「蕎心」などもそうである。これらは温度ではなく、揚げ方が上手だから天麩羅そのものがおいしい。そして細川さんや松尾さんを見ていると天麩羅に誰よりも熱心だからとおいしさに得心がいくというものだ。

 もともとは、蕎麦屋の天麩羅と、天麩羅屋の天麩羅は違っていた。だから室町砂場が考案した当初の《天せいろ》はつゆの中に天麩羅が入っていた。だがいつのころからか、誰かが、天麩羅をつゆに入れないで別の器に入れて供するようになって、それが現在のように主流になったとき、蕎麦屋と天麩羅屋の境がなくなった。折から、天麩羅屋が街から消えて、高級天麩羅店だけになり、天麩羅は蕎麦屋のものになった。だから、今の蕎麦屋は蕎麦がおいしいのは当然で、その上に天麩羅もおいしくなければならないということになっている。江戸四大食べ物のうちの二つが蕎麦屋の手になったから、今の蕎麦屋は江戸食屋の代表的な存在になってきた。

〔文 ☆ 江戸ソバリエ ほしひかる

写真 岩舟のカウンターと蕎ノ字のカウンター