第671話 白い妖精♪

     

『世界蕎麦文学全集』物語13

 670話の白居易の詩に続くのが、温庭筠(812?~870?)の《処士岵山居》だ。 

  西溪問樵客   遥識主人家  古樹老連石  急泉清露沙 
  千峰随雨暗  一径入雲斜  日暮鳥飛散  满山

 温庭筠は陝西省西安市の出身だから、西安にも蕎麦の花が咲いていたのだろう。
  ただ、感傷的な白居易の詩に比べて、知的音楽的な印象をうける。
  松枝茂夫『中国名詩選』(岩波文庫)によれば、温は放蕩無頼の生活ながら天才肌の詩人で彼によって詩は大成したというが、中国詩の解釈はもはやわわれわれ現代日本人にとってなかなか難しい。
   実は、私は温庭筠の名ぐらいは耳にしたことがあったが、《処士盧岵山居》の詩は初耳であった。それを一昨年の秋、北京を訪れた際に、北京大学の賈蕙萱先生から、戦海という書家に書いてもらったお軸を記念に頂いたから大事にしている。

   こうした詩人たちの蕎花賛歌はまだ続く。
   次代の宋の詩人王禹偁(954~1001)はわが故郷を思って、こう詠っている。 

  《村行》     
    馬穿山径菊初黄  信馬悠悠野興長  
      萬壑有声含晩籟  數峯無語立斜陽  
  蕎麦花開白雲香  何事吟余忽惆悵  
  村橋原樹似吾郷
 
   王禹偁は、山東省の出身だから、宋代の山東省に蕎麦の花が咲いていたことになる。

  ところで、この山東省には『蕎麦むすめ』という漢民族の民話が伝わっている。話はこうだ。
~ 貧農の若者が猫の額みたいに狭く、石ころだらけの土地を何年もかかって一生懸命耕作して蕎麦を播いた。すると、やっと白い花が咲いて満開になった。ある月夜に若者は白い花の精に出会い幸せな一時を過ごすことができた。
  ところがある日のこと、大嵐が襲来し、蕎麦が全滅したばかりか、畑の土もひっくり返ってしまった。若者は蕎麦の精が埋められてしまったのではないかと心配になり、畑の全てを掘り返したところ、金色に輝く小鳥が飛び出してきた。小鳥は「助けてくれてありがとう。お礼に金銀の宝物を差し上げます」。でも若者は「そんなものはいらない。それよりか蕎麦の精を知らないか。心配なんだ」と言った。小鳥は悲しそうに「蕎麦むすめは、化け物が摩天山へ連れて行ってしました。あの化け物はどんなに強い奴でも勝てません」と言った。若者は「ぼくは金銀はいりませんから、天下一の力持ちにしてください」。金の小鳥は働き者の願いだから聞き届けようといって、若者を力持ちに変えてくれました。
   もちろん結末は想像できるだろう。蕎麦むすめを助け出した若者は、また蕎麦の花につつまれ、蕎麦の精と幸せに過ごした、ということになつている。~
   摩天山とは現在の摩天嶺のことだろうか。民話だから明確ではないが、そもそもこの民話はいつごろ誕生したのだろうか。
   それを考える手がかりとして文化の性質というものを考えてみよう。
    文化というのは高い所から低い所へ流れる。高い低いと表現することを好まない人も、狭い所から広い所へと流れると言えば納得してもらえるだろう。つまり王禹偁の蕎麦の白い花を想う高尚な詩心民話によって大衆に広まり蕎麦の精となったのである。とすれば、この民話は宋代以降に生まれたと想定される。

 蕎麦の伝説が日本に近い山東省まで来ていることには驚きだが、それにしても白居易が感じた幽玄の白い世界に、もうひとつ想像を深めて蕎麦の精を生み出したことがここではいえると思う。

世界蕎麦文学全集』
   36.温庭筠「処士岵山居」
   37.王禹偁「村行」
    38.山東省の漢民族民話『蕎麦むすめ』

文  江戸ソバリエ認定委員長 ほし☆ひかる
 写真 温庭筠 詩・戦海 処士岵山居
北京講演