第693話 対馬の、原始の蕎麦
『世界蕎麦文学全集』物語 35
福岡空港から対馬行の便に乗る。下界を見下ろすと、九州北部と朝鮮半島の間に都合よく飛び石のように位置して対馬が見えた。
対馬は福岡からすぐだった(約140㎞)。元々対馬は海流などから佐賀や福岡へ行く方が便利である。それが長崎県になったのは、倒幕した維新政府が徳川方だった対馬藩に意地悪して遠い長崎に所属させたからだという。しかし今では当地はすっかり長崎県としてなじんでいる。
空港まで迎えに来てくれた知人に案内され、まずは島巡り。
和田都美神社に立寄ったり、上島と下島の間にある浅茅湾を眺める。
『万葉集』には、8世紀の遣新羅使人が詠った歌が載っている。
百船の 泊つる対馬の浅茅山 時雨の雨に もみたひにけり
浅茅山はすっかり紅葉してしまったというのに、順風の日を待ってたくさんの船がまだ浅茅湾で停泊している。
正使:阿倍継麻呂、副使:大伴三中ら遣新羅使人一行が、難波を出発したのは6月(736年)だった。なのに、途中航路が荒れに荒れ、今はもう秋になったというのに、まだわれわれは対馬の浅茅湾に停泊中。あゝ、家に帰りたい。なのに新羅へ行かなければならない、と思い悩む一行。
対馬の前に寄った壱岐の島でもこんな歌を吐露している。
新羅へか 家にか帰る 壱岐の島 行かむたどきも 思ひかねつも
日本が新羅・唐の連合軍と白村江で敗れて70年以上も経っているというのに、唐を後楯にしている新羅は日本に冷たい。行ってもろくなにことはないだろう。だから行きたくないえばというのにこの嵐。それでも役目だからと渡航したものの、案の定新羅は相手にもしなかった。一行は虚しく帰国したのであった。
外交、大国の権力・・・、昔も今も変わらぬ国際関係下の一般民の悲哀、この歌にはそれが漂っているのである。
ところで、対馬といえば、どうしても気になる穀物がある。それが古来種「赤米」である。ぜひとも目にしたかったので、頼んで連れて行ってもらったのが、豆酸地区のお天道様を祀っている多久頭魂神社と、「赤米新田」であった。でも残念ながら時季外れだったため刈り取った後の田だった。教えてもらったところによると、神社を護持しているのは古代祭祀集団の名残の人たちらしい。そのうちの主藤さんという家だけが、今も赤米栽培を続けているという。この神田で作った神に奉げる赤米は「神米」といわれているらしい。
歴史では、稲が日本に伝来したのは縄文後期、そのころは白米や赤米であったとされている。現に、朝鮮半島の洛東江流域(大邸市・釜山市など)では最近まで白米のなかに赤米が混じっていたらしい。
司馬遼太郎は「最初に渡来した米が、次に渡来して普及した米に対し、神の食べ物として神聖視されるのは当然だ」と述べながら、「赤飯はその名残だろう」と言っている。これは大作家の想像力である。 赤米→白米の順で渡来したとまでは言い切っていないものの、それとなく匂わせている。理論では解決できないことを想像力で越える。これが文学の力であると思う。
対馬といえば、蕎麦博士の氏原暉男が「対馬の現在のソバは日本へ伝播したソバの最も原種にちかいものと推定される」と言っていた。
そして前に、詩人の平出隆(1950~)の「原始の蕎麦」というエッセイを読んだことがあった。
~ 厳原の幹線道路に沿った町外れの今にも崩れそうな蕎麦屋、太さ、歪さ、短さが尋常ではなかった。蕎麦というより細く捏ねた水団ような感じだった。「うまい」という声は出なかったが、皆それぞれ感嘆の声を上げていた。帰ってからも仲間は「あの蕎麦」と言っていた。あれは「原始の蕎麦」だった。~
以来、対馬に行ったら「あの蕎麦」を食べたいと憧れていた。
だけれども、対馬の知人はあっさり言った。「町外れの今にも崩れそうな蕎麦屋」というのはとうになくなっている。
残念ながら「あの原始の蕎麦」は幻に終わった。
『世界蕎麦文学全集』
61.平出隆「原始の蕎麦」(『昭和、あの日あの味』)
*司馬遼太郎『壱岐・対馬の道』(『街道をゆく』)
文:江戸ソバリエ認定委員長 ほし☆ひかる
写真:対馬より韓国を望む