第697話 蕎聖円爾

     

『世界蕎麦文学全集』物語39  


    日本に《つるつる麺》をもたらした人物がいる。円爾という鎌倉時代の僧侶だ。その円爾の故郷を訪れてみたいと思って静岡へやって来た。
  ところが、目的地までのバスは午前中に一本、しかも朝7時の出発だというから、昨夜は静岡駅前のビジネスホテルに一泊した。そこから藁科川上流へ向かう。着いたのは8時半ごろ、まだ訪問先の大川生涯学習交流館は閉まっていた。仕方なく辺りの大きな岩に腰を掛けて待っていたところ、9時になって職員さんが出勤して来たので、噂の、再現された円爾の「水磨様」を見学させてもらった。
 円爾という人は、この山間の村から博多へ行って、南宋へ留学し、帰国後に博多の承天寺、京の東福寺を創建した人である。
  といわれても、円爾という人をご存知の方は少ない。彼のことを書いた小説というのもあまり見当たらない。なら、また自分で書いてみようかと思って書いたのが「榮尊と円爾、友情の蕎麦」であるが、僧侶の世界を書くのは難しい。なぜなら仏教が分かってないと書けないからである。だからさわりていどの掌小説にしかならなかった。
  ところが書き終わったころ、静岡県の作家深沢恵の『山香一服 ~聖一国師伝~』があることを知った。さっそく読んでみたところ、僧侶としては描かれているが、われわれが知りたい蕎麦の件は承天寺の言い伝えが述べてあるていどだった。
 まあ、そんな風だから、円爾が留学先から持ち帰った「水磨様」いわば「製粉水車の図」が日本の食を変えたのだと言ってもなかなか通用しない。とにかく、これまでの日本は“粒食”が主であったが、鎌倉室町時代から饅頭などの“粉食”やつるつるの“麺食”が始まったのであり、またそのためには“製粉”しなければならないが、その“製粉道具”を日本に持ち込んだのが円爾であり、その証拠が「水磨様」なのだが、「僧侶が紙切れ一枚持ち帰っただけで、何が証拠か」となかなか理解されない。
 たしかに、今の人はそう思うだろう。なぜなら現在のお寺は葬式でお経を唱え、お墓を守ってくれる所だから、とても麺と結びつかない。
  しかし当時の寺院は違っていた。宗教修行の場であることは無論だが、他に学問の中心であり、民を救済する福祉施設であり、外国へ行っては新進文化を輸入する商社であり、兵力を有する独立国でもあった。
  そんなわけだから、寺院では領地内で米も麦も蕎麦も野菜も栽培し、穀物を製粉して麺にしていたのである。麺類史研究家の伊藤汎先生も史料からそれを明らかにしている。それなのに、一般の人はまだ現在の印象を棄てることができない。
 そこで、静岡市は「水磨様」を再現し、完成した「水磨様」を大川生涯学習交流館に展示した。
  それは、1/5に縮小して製作されていたが、それでも私の背丈ぐらいの高さに、両手を伸ばしたぐらいの幅の製粉水車である。水が流れてくると水車が回り1階の搗臼と、2回の挽臼が動いて、製粉するようになっている。
  関係者の話によると、「円爾さんが持ち帰った図のとおりに造ったらご覧のような立派な製粉水車ができた。こうしてできたものを見れば昔、何処でも見られた製粉水車なんですね。水磨様というのは精巧な設計図だったのですよ」ということだった。とすれば、当時はみんながこれを見ながら製粉水車を造っていただということすが分かった。
  ことほどさように、再現するとしないでは大違い、いろんなことが見えてくる。再現したり、現地に行ったり、絵にしてみたり、文章にしたりして、五感から接近すれば身体が覚えてくれるようなところがある。
  というわけで、刺激された私は帰宅してから水磨様の水車小屋を描いてみて、そのうえでこう思った。  
  人が持って来るのは物(紙に画かれた「水磨様」という物)だけではない。たとえば「水磨様」を持って来た場合、これは何をする物なのか、作り方、使い方、果ては麺の作り方、その道具、食べ方も伝わるのである。
  それは先に話した蕎麦の実でもそうであった。野生の蕎麦の花粉が飛んで来ても漂着物でしかない。しかし人が運んで来る栽培蕎麦は違う。蕎麦の種の播き方、収穫、食べ物としての利用の仕方なども一緒に伝わる。
  そんなことを考えていると、東福寺境内の谷を流れる小川や、かつては賀茂川から引いた水が相国寺境内を流れていたという光景が浮かんできて、水車が回る音がしてくるのであった。

『世界蕎麦文学全集』
69.ほし✫ひかる「榮尊と円爾、友情の蕎麦」(平成18年6月『日本蕎麦新聞』)
70.ほし✫ひかる画「水魔様」
71.ほし✫ひかる「日本の麺は留学僧円爾によってもたらされた」(『蕎麦春秋』VOL.51)
72.深沢恵『山香一服 ~聖一国師伝~』

 

文:江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる
写真:ほし✫ひかる画「水魔様」