第698話 石臼伝説

     

『世界蕎麦文学全集』物語40

☆石臼伝説Ⅰ
 旧家の玄関や庭に、よく挽臼を敷いてあることがある。庭と石というのは風情的にもよく合っているし、また挽臼の幾何学的模様が少し新規性をもたらしているせいか、だいたい好感をもたれている。このように挽臼は日本の生活のなかに溶け込んでいるようであるが、その割には石臼伝播の具体的な話はあまり耳にしない。
  そんなか、井伏鱒二の『石臼の話』というのがある。話というのは、こうだ。
  外側に毛筆で梵字が20行あまり書いてある石臼(挽臼)が手に入った。字は縦書きだから中国経由の石臼にちがいない。インド渡来なら横書きだろう。で、いったい何て書いてあるのだろう、といったものである。
  要約すればたったこれだけであるが、この一文に、そもそも挽臼というのは中国から伝わったもの。その中国にも遠い国から伝わったのだということを臭わせているところがあるから、さすがだと思う。
  「挽臼と字」といえば、蕎聖片倉康雄が李白の詩を彫った石臼がある。片倉康雄から蕎麦研究家高瀬礼文に譲られ、それがソバリエの笠川皙さんへ、そして小生へと渡って、今は巣鴨の「菊谷」さんが使っている。これなんかももう一つの『石臼の話』になるだろう。

☆石臼伝説Ⅱ
 さて、このように日本の光景に馴染んだ石臼であるが、どのようにして全国に広がったかはなかなかわからない。
  そんななか「西仏坊が石臼を都から木曾に持ち込んだ」という伝承が木曾の徳音寺という寺に伝わっている。
  徳音寺というのは、木曾義仲の参謀だった西仏房が、木曾街道の宮ノ越宿にあった柏原寺を日照山徳音寺と改名し、義仲を弔った寺である。「日照」とは「朝日将軍」と呼ばれた義仲を指している。現在も、駅から木曾川を渡って真っ直ぐ行くと義仲の菩提所徳音寺はある。
  この西仏房には、近江の曲谷にも石臼伝説が残っている。  曲谷は、米原市の姉川上流の東草野にあり、かつては石臼作りが盛んに行われていた所である。その曲谷集落のなかほどにある円楽寺には、曲谷に石工の技術を伝えた恩人として40㎝ほどの西仏坊の石像が安置されている。
  この西仏房とはいったい何者か? 残念ながら、はっきりしない。
  ただ、あるとき西仏房のことを書いた飯野山治『たそがれ法師の物語』を見つけた。半藤一利に倣ったわけではないが「歴史探偵」を自認したい小生は、地味な小説や書き物に出会うとゾクゾクするほど嬉しい。前話の深沢恵『山香一服 ~聖一国師伝~』もそうであったが、今般は『たそがれ法師の物語』だった。それに花田清輝の『小説平家』に書かれていることを見てみると、西仏房の本名は海野幸長といい、信州上田の豪族海野幸親の息子であるらしい。海野という所は今、北国街道の海野宿として観光地になっているが、そこから幸長は京に上って文章博士となり、奈良の興福寺で出家した。
  そして1180年、近江の園城寺で以仁王が平家打倒を企て、興福寺に救援を求めてきたとき、西仏坊が興福寺を代表して返牒を書いた。そのなかに「清盛入道は平家の糟糠、武家の塵芥なり」の文言を書いた。園城寺、今は静かな古刹である。以仁王はここで挙兵し、敗れたが、この人が立ち上らなかったら、武家政権の時代は来なかった。そんな歴史上の出来事に採色をほどこしたのが、西仏坊の激烈な文句である。しかもあの清盛を「塵芥」と言ったのだから、龍の逆鱗に触れたも同然だった。西仏坊は東国へ逃亡したが、これだけで西仏坊の名は史上に残った。  
  次に西仏房が登場したときは、何と木曾義仲(1154-84)の参謀になっていた。だが惜しくも義仲は敗死する。西仏坊は日照山徳音寺義仲を弔ったというわけである。
 さて、われわれにとって問題なのは西仏坊石臼の関係であるが、考えてみれば彼が在籍していた興福寺は、中御門家と共に「素麺座」として知られた寺である。「座」というのは業務の独占権という意味であるが、西仏坊が石臼や麺について詳しかったことが十分うかがえる寺だ。
  さて、義仲を弔った西仏房は頼朝の追手から逃れ、暫く箱根山に閉居。そこで彼は『箱根山縁起』を起草、次には比叡山の慈円を頼った。その下で少納言信西入道の一門の人たち醍醐寺僧深賢らの『平家物語』執筆チームに入っていたというのである。これも驚きである。
  清盛を怒らせた。義仲の参謀となった。『平家物語』を書いた。大変な一生であるというのに、話はまだ続く。
  次に、西仏坊は法然の弟子になった。そうして故郷からそう遠くない、長野市篠ノ井に康楽寺を建てた。 
  その康楽寺を私が訪ねたのは、春三月、李の白い花が篠ノ井の郷に咲き誇っているころだった。忙しい中、ご住職に相手をしていただき、「今度来るときは前もって電話しなさい。寺宝を見せてやるから」とおっしゃった。
 「寺宝って何だろう? まさか、あれのことでは!」
 実は、康楽寺二世は浄賀坊といって、1295年に本願寺三世覚如と共に『親鸞聖人伝絵』を描いた画僧である。
  そういえば、覚如の伝記『慕帰絵詞』(1351年刊、藤原隆昌・隆章画)というのがある。それは麺研究家にとってはお宝のような史料である。なぜならこの絵にはわが国最古の麺食場面が描かれているのである。それを見ると、厨房で庖丁人や坊主たちが素麺振舞いの支度をしている。つまり大笊に盛ってある素麺を木椀に小分けしているし、汁も用意されている。他の料理も準備中である。魚を庖丁で切っているし、炭火での焼き物もある。隣室では僧侶が3名と公家が4名、料理を待っている。小姓らしき者も1名控えている。というわけで、大笊に盛ってある素麺を木椀に小分けして和えて食べるという寺方麺食の形が明確にされているのである。

 そんなわけで、謎の怪僧西仏坊を追っていたら、覚如の伝記『慕帰絵詞』に辿り着いた。自称「蕎麦探偵」としては大満足である。

 

『世界蕎麦文学全集
73.井伏鱒二『石臼の話』
74.片倉康雄の「石臼」(現:巣鴨「菊谷」)
75.日照山徳音寺伝承
76.三輪茂雄『石臼』
77.藤原隆昌・隆章画『慕帰絵詞』
*慈円『愚管抄』
*『平家物語』
*飯野山治『たそがれ法師の物語』
*『親鸞聖人伝絵』(東本願寺)、
*吉田兼好『徒然草』
*花田清輝『小説平家』

文:江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる
写真:石臼の敷石(韓国で宿泊した静江園)
西仏像(康楽寺)