第711話 明日に向かって

     

~『東京レトロ写真帖』~

 深大寺蕎麦「門前」の浅田さんからメールを頂いた。亡き八十八世の追悼文を書いてほしいとのことだった。追悼文というのはなかなか大変なことだが、これも深大寺そば学院の講師の端くれとしての役割だろうと思ってお引受けした。

 それからしばらくして、たいへんありがたいメールを頂いた。原稿をお願いした皆様には御礼として、私の新刊『新・みんなの蕎麦文化入門』の本を差し上げたというのである。そして私には『新・みんなの蕎麦文化・・・』というわけにはいかないから、秋山武雄『東京レトロ写真帖(中公新書ラクレ)を送りますということだった。
 それを浅田さんが選ばれた理由は、1961年に撮影された「門前そば」が掲載されているからだった。深大寺愛、満タンの浅田さんらしいと思った。深大寺で生まれて育ち、深大寺で仕事をされてきた浅田さんは、深大寺に恩返しをしたいと常々思われている。だから深大寺情報には必ず目を通され、また大事にされている。そんななかにこの本があったのだろう。
 著者の秋山さんは浅草橋で洋食屋「一新亭」を商うかたわら、趣味で撮りためた東京の風景写真を本にされた。これまでにも『昭和三十年代 瞼、閉じれば東京セピア』『東京懐かし写真帖』があるという。
 1961年の「門前そば」さんの写真は、今から60年前の店の姿である。浅田さんの父上の時代にあたる。店頭には《虹鱒料理》の大きな看板が掲げてあった。そして店の前の道はまだ土、歩いている女性は着物に割烹着である。
 こうした写真を集めて順に並べれば、深大寺物語ができるであろうと思いながら、拝見した。

 そうして頭から見直してみると、江戸名物の、立食い十円の寿司屋横丁、聚楽第、数寄屋橋、都電、東京タワー、皇居、富士山の景色など東京らしい風景写真があった。だから『東京セピア』『東京懐かし・・・』『東京レトロ・・・』というわけである。
 たまたま私は、広重の江戸百景について書いていたところであったので、秋山さんという人は現代の広重ではないかと思ったりした。
 浮世絵師歌川広重が活躍した江戸後期も現在の状況はよく似ていた。
   安政年間、列島で地震が頻発していたころ、ペルー提督が黒船を率いてやって来て開国を迫り、そのうえ外国から入ってきたコレラが大流行・・・。数十万人の死傷者が出ていた。
 広重は、よき江戸の景色を残そうとして描いたのが『江戸百』だったのである。

 秋山さんの本の最終章を開くと「明日に向かって」となっている。
 そして章の初めの頁には風景画家・東山魁夷の名画「」を思わせるような写真があって、最後の頁は浅草の金龍の舞の写真に、「新型コロナ禍で浅草は大変、この問題が落ち着いた後、龍が浅草に福を運んできてくれることを心から願っている」と結んであった。
 広重は復興を祈念して『江戸百』を描いたといわれているが、魁夷の「道」(1950年)も戦後復興の希望として評価された。
 これらを観ていると、地震や新型コロナなどによる先行きに不安をいだく私たちだが、希望という聖火だけはつなごうよという浅田さんの気持が伝わってきた。

〔深大寺そば学院 ほし☆ひかる〕