第714話 雀のファミリー

     

 「巣籠り」という言葉は好きではない。というか、当人たちが自嘲して言うのならまだしも、政府やマスコミが一般用語のように使うのには「誰のせいでこうなった」と反発したくなる。
 そんな「巣籠り」だが、いいなと思ったのは、庭に出ると各家庭からの幼児の笑い声が以前にも増して聞こえるようになったことである。
 それともう一つ、あるソバリエさんから電話があって、今までに海外旅行したときの写真がいっぱいある。それをいま整理している、と。「こういうときこそですよ」と大いに勧めた。また小林尚人さんなんかは一茶論を3本書き上げられた。一つのテーマを続けるのもいいなと思う。
 その一茶の句のなかに、「雀の子 そこのけ そこのけ お馬が通る」という有名な句があることは皆さんもご存知だろう。
 この句を見て私は、「雀の子」というのは「雀の子」のことだろうか。でも「雀の子」ってあまり見たことないから、小さい雀だから「雀の子」と表現したのだろうかと、つまらないことを思ったりした。

 ところで、4月の終わりごろ、庭に小鳥のための餌と水を置いてみた。理由はとくにない、思い付きだった。
  さっそく、四十雀や鵯が様子を見に飛んで来た。が、何かが違うと思ったのか、1~2回だけで続かなかった。
  ある日、今度は黒い大きな烏がやって来た。私は「小鳥以外はお断り」とばかりに松葉箒を振って追っ払ったら、二度来なくなった。
 「リスクは早めの対策を」とコロナで後手にまわって長引かせた政府や都に申上げたいところだが、われわれにはここで呟くぐらいが関の山だろう。
 そうこうしているうちに、今度は雀が来た。最初は1羽だったが、そのうちに2羽になってすぐに5羽に増えた。1羽のときは雀も黙食だったが、数羽だと「チュッ・チュ、チュッ・チュ」と会話しながら食べ続ける。「よかったね、こんな所に餌がある」とでも言っているのだろうか。
 観察しているうちに、雀の言葉もいろいろあった。「チ・チ・チ」「チル・チル・チル」「チュー・チュー・チュー」など。しかし鳥の声を人間の文字で表現するのは難しい。けれど明らかに会話していることだけは分った。
 あるときは、水は呑んでいるが、餌を食べない雀がいた。そうするともう一羽が口移しで餌を与えていることに気づいた。それから時々このような場面を観るようになった。飛べるようになった子雀の身体は親雀と同じぐらいだけど、餌はまた自分で食べられない。だから親が子に餌をあげていたようだ。このように親雀と子雀はよく観察しないと判別がつかない。
 話は一茶に戻るが、作句には感性と観察が必要だろうから、一茶は子雀と分かっていたのだろう。そのうえで子供になぞらえて大きな馬が通るから、子雀や子供たちに注意を呼びかけたのではないかと理解できた。

 さて、わが家の狭い庭であるが、5月末の今日になっても5羽以上には増えていない。毎日いつも5羽がピーピーしゃべりながら餌を啄んでいる。しかもよく食べる。一日中食べている。
 このとき思ったが、もしかしたらこの5羽はファミリーではないだろうか。だとすれば、よく大きな公園の大きな樹木に数百羽ちかくのものすごい数の雀たちが大集結した末に囀り合唱しているのに遭遇することがあるが、あれは幾つものファミリーが集まってのことではないだろうか。
  雀はファミリー単位で行動する、そんな小さな仮説を小さな庭での観察から立ててみた。

 追記
 雀を描いてみようと思った。しかし鳥類を描くのはむずかしい。細部を確認しようにも手で触れないからだ。だからといって写真を見てもなかなか感じがつかめない。地上に棲む動物や地上で咲く花のようにはいかない。それが飛ぶ鳥の特権だろう。
 同じ思いは、拙著『新・みんなの蕎麦文化入門』の第2章で「domestication」=植物の栽培化と動物の牧畜化について書いているときもあった。
 人類は、羽のある鳥類の飼育はできなかったのだ。もちろん養鶏や家鴨など一部はあるが、植物や四つ足動物に比べると、文明を変えるほどのことではなかった。やはり飛ぶ鳥は人の手から逃れる特権をもっているからだ。と、絵を描いている今、あらためて知った次第である。

〔エッセイスト  ほし☆ひかる〕