第718話 白鳳仏、千年の目覚め

     


 近代の深大寺は、「白鳳仏の深大寺」として知られていますが、明治までは文字どおり「王の」として信仰を集めていました。その転換のきっかけをつくったのがある若い考古学者でした。
  明治42年(1909年)、東京大学の考古学の助手だった柴田常恵(1877~1954:当時32歳)が深大寺白鳳仏すなわち釈迦如来倚像を発見したのでした。
  柴田が深大寺を訪れたのは、明治42年10月31日のことでした。友人の森潤三郎(森鴎外の弟)が京都府立図書館に転任するというので送別会を兼ねて仲間の吉浦裕二と3名で深大寺へやって来たのです。
 当時の深大寺81世権僧正堯福(寂:明治42年11月22日)は残念ながら病臥されていたので、寺の人にお願いして什物帳を拝見したり、梵鐘の拓本をとったりしたそうです。そうしているうちに夕刻になりましたので帰り支度をしてから、本堂の隣の元三大師堂へ寄ってみました。
  そこで柴田は本尊が祀られる須弥壇の下を覗きました。すると奥の地袋のような所に一体の仏像が位牌や花筒などと一緒に押し込まれていることに気が付きました。最初に仏像のお尻だけが見えました。寺男に訊いてみますと「サァ何ですかネー」と言ったので、二人で引出して縁の東側の所まで出してみました。そこへ2人の友人もやって来ました。このとき寺男は思い出したように「昔、法相宗であったころのご本尊かもしれない」と言い出しました。深大寺が法相宗から天台宗になったのは今から千年以上も昔の話です。
 驚きながらも、とりあえず撮影をしておこうということになって、写真機を片付けていた吉浦がまた開けて撮りました。
 翌日、現像した写真を中川忠順(1873~1928)に見せました。中川は東洋美術史学者で、文化財の国宝指定の中心的役割をもっている人でした。とくに美術史において「白鳳美術」(645大化改新~710平城遷都)という呼称の命名者としても知られていました。
 そんな中川ですから写真を見て、「ぜひ拝見したい」ということになりました。   
  そうして4年後、深大寺の白鳳仏は大正2年4月に国賓(現:重要文化財)の指定になり、関東を代表する美麗な白鳳仏として広く知られるようになったのです。

 ところで、柴田が発見したこの釈迦如来倚像は、実はこれまでの古記録にまったく見当たらないという不思議な仏像でした。下記のように、初見はやっと江戸末期です。

1842(天保12年)、『深大寺分限帳』に「本堂ニ有之、同銅仏 丈二尺余(83.9cm)
 壱体の記載あり、
1865年(慶応元年)、火災で本堂をはじめ諸堂の多くを焼失、
1867年(慶応3年)、元三大師堂再建、
1895(明治28年)、『深大寺創立以来現存取調書』に「釈迦銅 壱躯 丈二尺余 坐像ニ有ラズ 右ハ法相宗タリシ時ノ本尊ナリ申伝ナリとあり、
*1898(明治31年)、『深大寺明細帳』にも同趣旨の記載あり。
1909年(明治42年)、柴田白鳳仏発見、

 その後の明治の調査で一応報告されていますから天保12年の記事は認識されていたものの、あまり重要視されていなかったというのが実態のようです。現に、この間に火災が起きたり、元三大師堂が再建されたりしたときに、一時的なのか床下に横たえさせたもののそのまま放置されていたわけです。
  また「法相宗タリシ時」というのは、縁起によれば「859~877年、武蔵国司の蔵宗・蔵吉兄弟が反逆。そこで勅によって恵亮和尚が武蔵国分寺に下向し、勝地を求めて宝剣を投げたところ深大寺の泉井の辺りに落ちたので、深大寺を霊場として調伏法を修したというのです。その結果、凶徒は降伏したので、大楽大師恵亮和尚は深大寺を賜り深大寺一世となりました。このとき、深大寺は「法相宗を改め、天台宗となった」そうですから、9世紀以前の深大寺は法相宗だったということになります。
 明治42年に寺男が柴田に言ったことは、明治28年の調査のときにお寺が答えたことでしょう。そしてそれはおそらく1842年(天保12年)のころから言われていたことかもしれません。
 まとめますと、深大寺は創建当時は法相宗だった。そのときのご本尊は白鳳仏だったのかもしれない。ただしこの白鳳仏のことはこれまで一切記録がありません。また平安・鎌倉・室町・江戸時代の間もまったく話題にもなっていません。やっと江戸末期の天保年間から噂されるようになったということです。
  ですから、史料に残されているところの、1809年に深大寺を訪れた大田蜀山人も、1815年に『江戸名所図会』を制作するために訪れた斎藤幸孝も長谷川雪旦も全く知らなかったということになります。
 そんなことから、柴田常恵が床下から取り出したのは白鳳仏という物体だけではなく、〝千年の謎〟をも浮かび上がらせたということになるわけです。この白鳳仏はいったいどこからやって来たのでしょうか、謎です。

参考
*水野敬三郎 監修『開創壱千百五拾年記念 深大寺』(宗教法人 深大寺 発行)
*「深大寺釈迦如来倚像の発見に就いて」(堀口蘇山編『深大寺釈迦如来倚像』芸苑巡礼社1939年刊)

〔深大寺そば学院 學監・江戸ソバリエ認定委員長 ほし☆ひかる〕