第721話 謎の武蔵国司の乱?

      2021/07/15  

  前回は白鳳時代の大和の景色を観ましたが、今回は武蔵の景色を観てみましょう。
  武蔵国は、前代の牟邪志国、胸刺国、知々夫国の領域が統一され、7、8世紀には朝鮮半島からの渡来人を移住させて開発にあたらせました。高麗、新羅、狛江などの地名が生まれたのはそのころです。そして国府と国分寺は多摩郡(現:府中市、国分寺市)におかれ、江戸開府(1603年)までは多摩が武蔵国の政治・経済・文化の中心でした。

  新国家日本は、畿内勢力が全国を武力制圧したわけではありません。厩戸皇子(聖徳太子)や天智・天武天皇は大陸伝来の新文化(仏教や律令制)をもって、旧来の氏族社会の旧習を払い、国家の新体制を図ろうとしました。
  そんななかの天平時代中期に政教一致の象徴として国分寺、東大寺が建立されました。そして武蔵の深大寺も深沙大王の寺として創建されています
  その一方で橘奈良麻呂(721~757)の乱が起きます。直接は橘奈良麻呂と藤原仲麻呂(706~764)の主導権争いなのですが、背景には国分寺建立にともなう全国の民の疲弊不満があったともいわれています。つまり国が進める政教一致と民の感覚にずれがあったわけですが、それでも政府は乱を制圧して国策を推進していくのです。

   武蔵国では、国分寺の主要堂宇が天平宝字年間(757~765)には完成していたと推定されており、他の国分寺の三倍の規模だったといわれています。それには優秀な技術者の存在がうかがえます。また武蔵国の国衙は現在の大国魂神社境内の東側に、国司館跡は武蔵府中本町にありました。
   8世紀末になりますと、深大寺の満功上人が亡くなり、最澄が比叡山を草創、平安遷都がなされます。
   時代は飛鳥 白鳳 天平(平城)から、平安へと変わります。
   それから間もなくして武蔵国司の蔵宗・蔵吉兄弟が反乱(859年)を起こします。ただ国司というのは都から派遣された官吏ですから、本来なら反乱を取り締まる立場です。どういう理由で反乱を起こしたのでしょうか、あるいは反乱組に加担させられたのでしょうか。何しろ、正史(『六国史』)の一つである『日本三代実録』に記載がありませんから、くわしいことは分っていません。ですが『深大寺縁起』に記されておりますので、反乱は史実だろうといわれています。
    早速、恵亮和尚という人が清和天皇(850~881)の勅を奉じて武蔵に下り、武蔵国分寺にやって来ました。そこで不動明王の利剣を投げたところ深大寺の泉井に落下したので深大寺を収法の霊場としました。今でいえば国分寺市から調布市まで剣が飛行したというのですが、そんなはずはありませんね。最初から深大寺に狙いを付けていたのでしょうか。それとも近くの深大寺の東の岡の難波田弾正城址は武蔵国司蔵宗の旧館だったという伝説(『江戸名所図会』)がありますから、そのため深大寺にやって来たのでしょうか。でも当時の武蔵野国司の館は府中に在ったはずです。伝説と矛盾があります。 
   とにかく、乱は短期間のうちに鎮圧されたと思われます。なぜなら乱後に深大寺を賜った恵亮和尚は翌年に亡くなっています。
   しかしながら、「武蔵国司蔵宗の反逆」は『深大寺縁起』くわしくいえば五十二世の法印長弁の記録だけですので、蔵宗・蔵吉が何者なのかは全く不明です。それから私たちが関心をもつ白鳳仏についての記録も『縁起』には一切書いてありません。
   ということは、記録に記載されない者どうし、武蔵国司兄弟白鳳仏の関係者、つまり白鳳仏関係者は仏工もふくめて渡来人のことでしょうから、武蔵国の反乱とは武蔵国司と武蔵の渡来人の反乱だったのでしょうか。武蔵人となった渡来人(高麗人・新羅人)の思いは畿内が推進する国家仏教に対し複雑だったのかもしれません。そこに何があったのかは分かりません。仏教に詳しくない小生には見えないところがあります。ただ歴史的にみますと国家仏教とはいえ、当時は学問知識仏教、直輸入仏教の段階だったのでしょう。なぜなら日本に伝来した仏教経典は外国語のままだったのです。
   どういうことかといいますと、紀元前6世紀ごろのインドの一地方の方言で説かれていた小さな教えが世界仏教の一歩になったのは1~3世紀のクシャーン朝が仏教正典を共通語のサンスクリット語に翻訳したからです。その仏教は西域を経て中国大陸へ入ってきてさらに漢訳されました。このように文字力というのは社会力として大きいものですが、残念ながら日本は文字をもっていませんでした。ですからそのまま漢字で“学問”として学んでいたようなところがあります。
   ここが、仏教に対して、政府、民、渡来人との間で感覚のずれがあったところだということは想像できますが、その感覚のズレとは具体的には何かということまではつかめません。
   ところが、平安時代になりますと、宗教的な実践のための指針が必要だと考えられるようになり、特に最澄・空海の登場によって宗教改革がなされました。とくに最澄の立場は、誰でも学んで努力すれば、仏陀が教えた悟りの境地に入ることができるとし、いわば日本の仏教が登場したのです。言い換えますと、仏教が“学問”からやっと“宗教”になったのではないと思います。
   その時期が武蔵国の国司の反乱あたりです。現に、武蔵の国では奈良仏教(三論・法相・成実・俱舎・律・華厳など)を学んだ満功上人(?~780)の深大寺(調布市)や、慈訓(691~777)が開いた慈光寺(埼玉県ときがわ町)などが、そうした平安仏教(天台宗・真言宗)に改まったのでした。
    こうして深大寺は歴史を歩み始めるのですが、そこに白鳳仏の存在がうかがえないのは、やはりなぜでしょうか。

参考  
『ものがたり深大寺蕎麦』シリーズ
 ・721話 謎の武蔵国司の乱?
 ・720話 深大寺白鳳仏はどこから?
 ・718話 白鳳仏 千年の目覚め
 ・717話 青春の白鳳仏
 ・716話 二重の異邦人
 ・715話 日本の中の朝鮮文化

 

〔深大寺そば学院 學監・江戸ソバリエ認定委員長 
ほし☆ひかる〕