第761話 砂村せんき稲荷ものがたり

     

 昭和42年まで、江東区砂町(旧:砂村)砂村疝気稲荷という神社があった。
 当社は19世紀初め(文化文政)ごろから、疝気に効く稲荷として参拝客が増えはじめ、砂村疝気稲荷と呼ばれるようになったらしい。
  「疝気」というのは男性特有の下半身が痛む症状を指し、神経性腸炎、寄生虫症、筋肉痛、睾丸炎、脱腸が含まれた。その治病の願掛けには蕎麦切を断つか、願を解く場合蕎麦粉や蕎麦切を供えたというから、ソバリエとしては聞き捨てならない。
  砂村の地名は開発した砂村新左衛門(1601?~68)の姓に由来する。新左衛門はもともと越前国の砂畑(鯖江市)を開発した福岡家の分家と伝えられ、これまでに越前国三国湊(坂出市)、摂津国上福島(大阪市福島区)、相模国三浦郡(横須賀市)など多くの新田開発を手がけた経歴をもっていた。こうした新田開発は本来の武士の発祥につながるものである。彼らは新地を開拓してその土地名を姓にしていったという武士発祥物語がある。おそらく福岡一族はその新田開発の技術をさらに高めていたのであろう。
 かくて、砂村新左衛門は明暦の大火後に江戸の湾岸を開発した。
 そして1659年、当地に大智稲荷(別名:大市比売命、配偶者:須佐之男命、子:宇賀之美多麻乃命、神格:食物の神)が祀られた。周囲は長州藩、川越藩、松江藩の抱屋敷(私有地)であったため、武家からの信仰も深かったようである。
  さらに砂村は1681年に江戸のごみ捨場に指定された。そのおかげで積もったごみと日照時間の長さで肥沃な土となって、野菜栽培に適した土地となった。そこへ江戸では初物食いが流行ってきた。その需要に応えようと当地の農民は促成栽培法を考案し、江戸農業の先進地帯となっていった。当時の遺産である「砂村人参」は、今も江戸野菜として人気である。ただ「初物食い=贅沢」は当時の身分制度をゆるがすものとして、それを助長する促成栽培法も厳しく統制されていたが、砂村のせんき稲荷の人気は衰えなかった。広重も『江戸名所道戯画』に描いたくらいである。
  このように蕎麦切を神仏祈願の際に供えたり、絶ったりする行為は、澤蔵司稲荷(小石川)蕎麦喰い地蔵(浅草から、練馬へ移転)蕎麦閻魔(北千住)の伝承も同様である。ただ、これらは舞台が寺社であっても、いわゆる「寺方蕎麦」のご接待膳とは異なるものである。

  ところで、この砂村稲荷は現在、千葉県の習志野市に座す。昭和42年に引っ越されてから、代々神主家のお宅の座敷に鎮座されていて、信者さん以外の人はお詣りすることができない。
  ところがである。ソバリエの赤尾さんが、その神主家の遠縁にあたるらしい。しかも近々、用があって伺う予定だという。さっそく私も鞄持ちで同道させてほしいとお願いした。
  習志野を訪ねると、たしかに普通のお宅だった。一般人ならお参りできないところ、親戚筋の赤尾さんとなら許されるというわけだ。赤尾さんがここは千葉だからといって千葉在来を手ずから打って供え、二人は二拝二拍手一拝してお詣りした。
 そうして一階の応接間に戻ってから夫人から伺ったことが上段に記述した砂村稲荷のお話である。
  そのなかで夫人が述懐されたある言葉が、妙に私の瞼に歴史的景色として広がった。「砂村稲荷は海辺がお好き、前の砂村も、今の当地も海が見える所だった。ただ現在はとちらもその光景はは望めないのが残念だ・・・」 と。

 帰る際、「一層のこと、砂町の元在った砂村せんき稲荷社にも行こうか」ということになって、この日一日は『砂村せんき稲荷』巡りになった。

  その途中、赤尾さんが平岩弓枝の『御宿かわせみ 桐の花散る』に砂村稲荷が出てくると教えてくれた。
  帰宅してから読んだら、江戸の景色がもうひとつ広がった。
  話はこうであった。
  「御宿かわせみ」の常連客に中津川の大店のご主人がいた。ところがその店主と4歳になる一人娘が江戸の「かわせみ」に泊まったとき、娘が神隠しにあった。拉致被害者家族の心労は痛ましい。4歳の女児は可愛い盛り、愛しい娘は生きているのか、死んだのか。それも分からぬまま空しく25年が経った。
  そこへある殺人事件が起きた。砂村稲荷の社は事件に関係する舞台として登場していた。続いてある若い夫婦の自殺事件があった。その夫婦は「かわせみ」の桐の樹の下にわが子を置き去りにしての心中だった。夫婦の自殺の理由は、妻がヤクザに手込めにされようとしたため、夫がその狼を殺害したことによる自責からだった。虫の息のなかで女は言った。桐の花に自分の幼いころの思い出があるような気がしたから、そこに娘を置かせてもらったと。その女は字が薄くなった迷子札を持っていた。実は、25年前に行方不明になった娘がその女だった。大店の主人は娘夫婦の亡骸を丁重に葬ってやった。そして店主は、中津川では女の児が誕生すると桐の木を植える慣習があるから、帰ったら庭に桐の木を植えてもう一頑張りすると言って、孫娘の手を引いて中津川へ帰って行った。

  祈願に蕎麦切を供えたり、子供の成長を願って桐の木を植えるのも縁起かつぎばかりとは思えない。何かの希望にすがるのが人間であろう。

〔江戸ソバリエ ほし☆ひかる〕