第780話 国境なき江戸ソバリエ 九箇条
サンフランシスコ在住のフードジャーナリストの関根エリさんがご親類の慶事のために一時帰国された。
彼女とは、2010年にサンフランシスコの日本領事館でお会いしてからだから、お付き合いはもう12年にもなる。
そのときの、われわれの蕎麦打ちデモ後に「あなたたちが帰国された後、私たちが蕎麦打ちをしてみたくなったらどうしたらいい?」というご質問を頂いた。要するに「蕎麦はこんなに美味しいヨ、蕎麦打ちはこんなに楽しいヨということはよく分かった。じゃあ、その気になってやろうとしたとき、蕎麦粉、道具、打ち方はどうすればいい。言い放しで帰るのか、無責任ではないか!」というわけである。
ショックだった。勉強にもなった。それから国内外はむろん、今日のデモ打ち、あるい今日のお話の目的を明確にするようにした。
そのことを申し上げると、「エッ、そんなこといいましたっけ」と笑われた。
とにかく今日は、あの日のサンフランシスコで一緒だった松本行雄さんにも声をかけて三人で浅草の蕎麦屋さんでお会いした。
すると、すぐに拙著の『新・みんなの蕎麦文化入門』について「あの本は映像化したら面白いよ」と言われた。またもや彼女の指摘にドキッとした。
実は、あれを書くときに裏で意識していたのは絵と歌であった。
そもそも私は論理思考が乏しい。そのうえに限界のある論理法なるものを信じていないところが少なからずある。そんな私が屁理屈を書こうというのだから、面白い内容になるはずがない。そこで少しでも映像や音楽性を加味したいと思いながら執筆したのであるが、それを見抜いたのが関根さんと、もう一人ミュージシャンでソバリエのゆさそばさんである。そんなわけで女性の感性には度々舌を巻くわけである。
さて、関根さんは日本はもちろんサンフランシスコを愛しておられる。そしてご主人は世界的にも著名なフードサイエンスのジャーナリストである。だから世界の料理に詳しいから、お話するのが楽しい。
さっそくメニューを開く。【冷たい蕎麦】【温かい蕎麦】に分けて記載してある。日本人には違和感がない。しかし外国には「冷たい麺」はない。ましてや「麺と汁が別々になって付けて食べる」ということもない。だから世界の麺は、中国の麺やイタリアのパスタのように【汁あり麺】【汁なし麺】に分類される。何でもないことのようであるが、ここが重要。
というのはわれわれが外国へ出かけて行って、デモして供するのは《冷たい蕎麦》か《ぶっかけ》が多い。とくに《ぶっかけ》は供する側は便利である。
ところが、国内のある蕎麦屋さんを訪れたとき、その蕎麦屋のご主人がこんなことを言った。
~ ある日、外国人がやって来て《ぶっかけ蕎麦》を注文した。「そんなものはない」と言うと、変な顔をされた。よくよく聞いてみると、彼の国に日本人がやって来て、蕎麦打ちデモをやって、《ぶっかけ》が日本の蕎麦だと言って、食べさせてくれたという。~
その蕎麦屋さんは「これだから素人は困る」と怒っていた。
その後、あちこちの国で「汁のある蕎麦がいい」と言われたり、つゆに「砂糖が入っていることを嫌がられたり、出汁の「鰹節の匂いが嫌だ」と言われたこともある。交流の場は楽しさが優先だから、意見としては少ないかもしれないが、いずれもごもっともである。
〝匂い〟というのは民族のものであるから、馴染みがないと異臭になる。そして日本ではサ・シ・ス・セ・ソが調味料使用の基本となっていて、砂糖を料理に使うが、外国で砂糖を料理に使うことがないことにあらためて気づかされたり、一番のネックは出汁だったりすることに困ったりすることもあった。
それというのも、いま天麩羅、握り寿司が外国人の間で人気があるから、和食が受け入れられていると思ったら、それは少し違うのじゃないかという気がする。要するに、油物、あるいは健康食としての魚が注目されているところが大きいのであって、和食自体が関心を持たれているとはかぎらない。懐石の《清汁》なんかは珍しがって戴くかもしれないが、何といっても彼らは濃厚な《スープ》がお好みだ。何しろワイン1本を使って長時間煮込んだ妖美な味となった肉、あるいは脂がシューンと出たローストビーフなどが好きだ。それらを見ただけで和食と洋食は北回帰線と南回帰線ぐらいの違いがあることが分かる。したがって日本食の代表である《味噌汁》や《蕎麦つゆ》の出汁すなわち【旨味】を本当に理解してもらうことは難しいだろう。
しかし、和食を紹介するなら、その成り立ちや特色をしっかり説明する義務がある。
そこで、私は『国境なき江戸ソバリエ九箇条』なるものを作成してみた。
(ⅰ)対象が一般人の場合は:海外で通用する温かい《かけ蕎麦》が望ましい。
(ⅱ)対象が料理人など専門家の場合なら:日本の特色である冷たい《ざる蕎麦》でもいい。
◎ 出汁の旨味について、または隠し味としての砂糖利用について答えられるようにしておくこと。あるいは意識して説明すること、などがポイントになるだろう。
もちろん準備などのチェック項目的なことは必要だが、その前に民族によって味覚・嗜好は違うことを認識すること。
これが国境なき江戸ソバリエの心得だと思う。
それもこれも、関根さんのご質問から始まったことだとあの日あの時を懐かしく思い出し、再会をお約束したわけである。
なお、『国境なき江戸ソバリエ九箇条』はご縁があって望まれたときは差し上げている。それも江戸ソバリエ協会の役目だと思って。
《参考》
関根絵里「クリエイティビティーなソバリエたち」
http://www.edosobalier-kyokai.jp/kokkyou/ko_sekine.pdf
ほしひかる『新・みんなの蕎麦文化入門』
コート・ドール斉須政雄『十皿の料理』
『国境なき江戸ソバリエ九箇条』
《写真》蕎上人にて《変わり蕎麦》《鴨なん》
〔江戸ソバリエ ほし☆ひかる〕