健康ニュース 7月15日号 腹八分説を検証すると

     

 知人に誘われ健康講演を聴いてきました。90分の講演で講師の主張は、「腹八分こそ健康長寿のカギである」ということで、何度も貝原益軒と養生訓という言葉を言っていました。

 終わった後、感想を求められましたので、率直に「疑問が多い」と答えました。

 養生訓を書いた貝原益軒は、平均寿命が45歳に達していない江戸時代に84歳で没するという長寿であったことは事実です。しかし現代のように戸籍制度がなかった時代の平均寿命を現代と比較すること自体問題があると考えます。 さらに、養生訓が世に出された時代背景などを考えてみた時、腹八分健康説を万人に押し付けようとしている講師の発想はいかがなものでしょうか?

 養生訓は1712年、元禄時代に世に出たものです。貝原益軒は50歳過ぎの1681年ころ、天候不順による天和の飢餓という食糧難時代を体験しています。

大多数の庶民は食べたくても食べることができなかった日々でした。しかもその時代の食生活は1日2食であり、それすら庶民のお腹を十分に満たせなかった時代であったことにも触れていません。

 「腹八分健康説」を唱えている養生訓が発行された後、享保の大飢饉、宝暦の大飢饉、天明の大飢饉、天保の大飢饉と3~5年おきに飢餓の時代を迎えております。

 そんな時代の中、日本人の食生活は画期的な変化を迎えることになったのです。その変化とは・・・。

元禄時代後半、日本人の食生活は、1日3食の時代へと変わり、定着し始めているのです。全国的に菜種栽培が進み、なおかつ菜種油搾取の技術が飛躍的に進歩し、庶民も夜の生活を楽しめる時代になったのです。油問屋という新たな業種が生まれたのもこの時代です。

 1日2食の時代ですら、定期的に発生している天候不 順による食料不足。それが1日3食となるとどうなることでしょうか?誰でも想像できるのではないですか?

 当時の権力者が、腹八分健康説を知った時、この説を治世に生かそうとするのは当然のことと言えます。

 この江戸時代の腹八分健康説は、昭和20年に復活しました。戦争が終わった時、日本は未曽有の食糧難時代を迎え、腹八分健康説が復活したのです。当時、食べ盛りの子供たちは、両親はもちろん、おじいさんやおばあさんからも「腹も身の内だよ」「腹八分が丁度良いのだよ」と教えられて育ちました。

 時はさらに流れ、その時代の子供たちが働き盛りとなった時、世は飽食の時代を迎えました。メタボという医学用語が一般の人々にも広く使われるようになった時、腹八分健康説がまた脚光を浴びるようになったのです。

 その時代の働き盛りの人々、いわゆる団塊の世代がリタイアした今、その人たちを対象に腹八分健康説を実践させたらどういう結果となるのでしょうか?

 高齢者を専門に診ている医療関係者は、こぞって食事を十分楽しむように呼び掛けています。誰も腹八分を唱えていません。そうでなくとも食べる量は、消費エネルギーが減る分、現役時代の7~8割となります。それを腹8分にすると現役時代の6割少々しか摂らないことになります。これは高齢者の低栄養という問題に直結します。何もゲップが出るほど食べようというのではなく、十分食事を楽しみ、なおかつ午前と午後のおやつタイムには牛乳などと何かを口にすることでエネルギーや栄養素を補うことなどを推奨し、そうすることによって低栄養を防ごうというわけです。

 貝原益軒はあくまでも江戸時代の学者です。大和本草という著書には、「納豆のように腐ったものを食べると早死にする」と述べています。発酵と腐敗の区別がなかった時代ですからこれも仕方ないことでしょう。