第805話 映画『いつか晴れた日に』の紅茶

     

 紅茶といえば《アフタヌーンティー》ということをよく耳にします。
 18世紀初めのイギリスの公爵夫人が始めたといわれています。その夫人というのは、1840年代前半ごろベッドフォード第7代公爵フランシス・ラッセルの妻アンナ・マリア(1783~1857)のことです。夫妻はイングランド東部のベッドフォードシャー州のウォーバン・アビー館に住んでいましたが、当時の昼食は軽めで夕食は7時ごろだったため、空腹をしのぐ意味で近しい人たちを応接間に集めて内緒で軽食をとっていたのが人気になって、そのうちに公然の秘密となり、やがてそれは正式な客人へのおもてなしとなったそうです。
 7代公爵は、前2代にわたって続いた散財を徹底した緊縮方針で乗り切ったといいます。イギリスの宰相として知られているジョン・ラッセルはこの公爵の末弟に当たる人です。また公爵夫人アンナ・マリアはハリタン伯チャールズ・スタナップの娘でヴィクトリア女王の女官の一人として出仕していました。彼女は貴族生まれでありながら貴族らしくないところがあって使用人たちに慕われていたといいます。そんな彼女だから貴族社会の因習にあまりとらわれない《five o'clock tea》⇒《アフタヌーンティー》という新しいことを始めたのではないかといわれています。彼女が5時にお茶の時間を主宰したことは書簡にも残っていて、一緒に甘い物が出されていたようですが、実際はどんな物が出されたのかまでは記録されていません。
 なお、ウォーバン・アビー館には現在も第15代ベッドフォード公爵夫妻が住まわれているといいますから、イギリス王国らしい話です。

  さて、そういう言い伝えをもっている《アフタヌーンティー》は、映画とか小説、とくにイギリス物では、主役的でなくても脇役としてお茶会の場面がよくあります。以前に観た映画『いつか晴れた日に』もそうでした。
 その映画では、みんなで出かけて帰宅したり、それでなくても事あるごとに「お茶にしましょう」という言葉が何度も出てきます。
 ストーリーは、イングランド南東部のサセックス州にある私園ノーランド・パークを持つダッシュウッド家の娘たちの恋物語です。時代は19世紀前半に設定してありますから、先述のイングランド東部ベッドフォードシャー州のベッドフォード公爵夫人のころとちかいようす。
  話は、当主ヘンリーが亡くなるときから始まります。当時のイギリスの法律では当主が亡くなると全財産は長男に相続されることになっていました。そこで妻や三人の娘たちの将来を心配するヘンリーは今際の際に「財産は譲るから、妻や三人の娘の面倒を充分見てほしい」と頼みます。しかし長男は先妻の子、今まで妹たちとの交流はあまりありませんでした。それでも人のよい彼は、父の遺言は守ろうとしますが、気の強い妻は義理の母と義理の妹たちを屋敷から追い出してしまいます。しかたなくダッシュウッド夫人と長女エリノア、次女マリアンヌ、三女マーガレットは、南西部のデヴォン州のコテージへ引っ越していきます。その過程では冷静な性格の長女エリノアと情熱的な次女マリアンヌの恋の破綻があります。しかしそれが逆転して成就(晴れる日)が訪れるのですが、題名は、冷静な長女と情熱的な次女の恋物語を意味した原題の「SENSE AND SENSIBILITY」がふさわしいかと思います。
 ところで、この映画は最後に恋が成就しますので、観る者はホッとするのですが、それまではイギリスの貴族社会の裏面が描かれています。つまり貴族の娘たちは現代女性のように職に就くわけではありませんから、良家へ嫁ぐことだけが豊かな人生への道とばかりに母親と若い娘たちは必死です。そういうときの情報収集のために《アフタヌーンティー》という雑談交流の場が生まれたのではないかと思います。映画でもそのような場面がチラチラと出てきます。
  そんななか、最後の方に一カ所だけ印象的な場面がありました。
  それはエリノアが左手にティーカップ右手にソーサーを持って窓際に佇む場面でしたが、それがなかなか格好いいというか、絵になっているのです。 
  実は長女エリノア役はこの映画を脚色したエマ・トンプソン(1959~)が演じていて、アカデミー賞の最優秀脚色賞を受賞した女性ですから、「SENSE」のはまり役だったのです。ですから、あの絵はエマ・トンプソンがお茶というものを演技で表現したシーンだったのではと思ったわけですが、そうしますと、この映画は19世紀のアフタヌーンティーから現代女性が飲む紅茶まで描いているのでしょうか

 女性と紅茶といえば、森鴎外の長女で作家の森茉莉(1903~87)も大好きだったようです。「ボッチチェリの薔薇の茶碗」と自分で名付けた紅茶碗を寝台の横にいつも置いてあって、小説を書くことや、または書けないという苦悩に疲れると、お湯を沸かして、ティーバッグで、紅茶を淹れていたそうです。またあるときは英国の推理作家F・W・クロフツの小説を読んだりしていて、お茶を飲むところなどが出てくると、またお湯をシュンシュンと沸かしてまた飲んでいたそうです。

 紅茶は、古ではアフタヌーンティー、現代では知的な女性に美味しいお茶のようです。

〔エッセイスト ほし☆ひかる〕