第808話  大和郡山奥平家の茶会

      2022/09/11  

 江戸時代に松屋三代(久政、久好、久重)の茶会記録が有名です。これを『松屋会記』といいます。
 江戸ソバリエなら、そのなかの久好の茶会記(1586~1626)の、郡山城(奈良県大和郡山市)の重臣奥平金弥に招かれた茶会を取りあげなければなりません。
  時は元和8年(1622)12月4日のことです。
 招かれたのは、奈良奉行の中坊左近秀政、興福寺一乗院の坊官(職員)中沼左京、興福寺一乗院の坊官別所宮内卿(次兵衛)、そして辻七右衛門と、松屋久好の五名です。
 朝の茶会は四時から郡山城で行われました。そのときは城主の松平下総守忠明(1583~1644が)亭主をつとめています。
 夕方は四時から、郡山城の主席家老の山田半右衛門殿宅での茶会が予定されていました。
 ところが、昼に五人は重臣の奥平金弥宅に招かれたのです。予定外のことでした。
  筆者ならずとも、「何があったのだろう?」と想像がかき立てられます。
  この奥平金弥という人は、調べて「松平家の家臣」としか出ていません。しかし主君と家老の間に予定外の茶会を入れたとなると、ただ者ではないだろうということで筆者は「重臣」としたわけです。それになぜそのようなことになったのかが気になるところですが、これ以上は小説の力を借りるほかありませんが、ともあれその記録が下記になります。
  一山長文字  軸ワキニ青地ノキヌタニ
  梅・ホケ入  尻フクラ
  染付茶碗  古黄瀬戸水指  メンツ  引切
  日野うどん  蕎麦切  肴色々  菓子餅・栗・牛蒡

 この茶会では、《蕎麦切》が後段(最後に出す飲食物)として振る舞われた会として、蕎麦通たちの注目を集めています。
  それはともかくとして、日本の不発酵茶の醍醐味は、お茶の渋味と余韻のうま味はもちろんですが、炭の匂いというのもけっこういいものだと思います。そしてお湯の沸く音、静かな茶筅の音などの景色を想像していますと、招かれた客と招いた側の人物が気になってきます。そこで集まった人たちのことを少し調べてみました。
  先ず、この『茶会記』の記録者松屋久好(?-1633)ですが、本業は奈良転害郷に住む塗師、そして東大寺八幡の禰宜でもありました。
 茶人としては、村田珠光の茶風を伝承する奈良派の一人です。千利休、小堀遠州との付き合いも深かかったようです。師の珠光という人は「藁屋に名馬繋ぎたるがよし」という茶道における名言を残しているといいます。これをどう解釈するかは難しいところですが、「貧しい生活でも心中には名馬を秘めている」と解している人もいます。
 また松屋は、「徐煕筆の白鷺の絵」、「存星長盆」、「松屋肩衝」のいわゆる「松屋三名物」を所持していたことも有名です。
  そのうちの「白鷺の絵」というのは、五代十国(南唐)時代の花鳥画家徐煕の筆で、足利義政 → 村田珠光 → 松屋と伝えられ、この絵を眺めるだけで茶道の極意が感得されるとさえ言われたとのことです。
 「存星長盆」は、唐の張成作といわれる逸品だそうです。技法は、漆塗りの面に色漆で文様を描き、文様の輪郭線に沿ってやや太く、文様の上は細く、刀で線彫りを施すものだったらしいのですが、技法は現在の中国にも残されておらず、わが国では江戸末期に高松藩の玉楮象谷がこの技法を模した象谷塗を開発し、香川漆器がその伝統を受け継いでいるとされています。
 「松屋肩衝」は、漢作の名物で、珠光の弟子松本周寶が所持していました。この「松屋肩衝」は現在、根津美術館(東京)が所蔵しています。要は上流の茶人だったということです。
 次は、奈良奉行の中坊左近秀政ですが、この中坊氏というのは菅原道真の後裔が生き残って柳生一族となり、その一部が中坊氏を名乗っていたそうです。菅原道真といい、柳生一族といい、小説や映画などお馴染みの一族です。
  乱世の大和では、南和の越智氏と北和の筒井氏の対立という構図でした。そのうちに筒井氏が大和をほぼ押さえましたが、それができたのは中坊氏の支えがあったからだといわれています。しかし1608年になると、中坊秀祐が駿府城の徳川家康に筒井定次の不行状を訴えたため、定次は改易に追い込まれました。寵臣である秀祐がこのような訴訟を行なったのは家康との裏取引があったのではといわれています。実際、筒井氏改易後に中坊秀祐は幕臣として取り立てられ、奈良奉行に任じられています。そして秀祐の死後家督を継いでいたのが嫡子の秀政なのですが、なかなか一癖も二癖もあるような一族であったかと思われます。
  三番目は、興福寺一乗院の坊官中沼左京という人物です。
  一乗院というのは、第6代門主覚信(関白藤原師実の子息)のころから、門跡寺院(摂家あるいは皇族が門主を務める寺院)の一つとなり、この当時は尊覚法親王(後陽成天皇の第10皇子:1608~61)が門主でした。その一乗院の尊覚法親王の諸大夫が中沼左京(1579~1655)でした。また左京の妻は大名茶人として知られる小堀遠州の妻の妹、弟は能書家で知られる石清水八幡宮の社僧松花堂昭乗(1582-1639)でした。これらの縁から、左京は小堀遠州、あるいは金森宗和、片桐石州ら一流茶人との交流をもっていましたが、これら一廉の男たちと付き合うにはそれ相応に腹の据わった人物でなければならなかったでしょう。それを思えば、中沼左京という人物も強かな男であったにちがいありません。
  四番目の、坊官の別所宮内卿につきましては詳細は不明です。ただ奈良市に別所町というのがありますからそれと関わりのある人物なのでしょう。また五番目の辻七右衛門につきましても詳しい素性は分かりません。
 さて、これら五人を迎えた大和郡山藩を少しご紹介します。
 先ず朝の茶会を設けた藩主松平忠明ですが、彼は1583年に徳川氏の重臣の奥平信昌の4男として生まれました。母は徳川家康の娘亀姫でありますから家康の外孫にあたります。そんなところから家康の養子となって松平姓を許され、三河作手藩主、伊勢亀山藩主となり、大坂冬の陣では美濃の諸大名を率いる河内口方面の大将となっています。そして豊臣氏との間で休戦協定が結ばれますと、家康の命令で大坂城外堀・内堀の埋め立て奉行を担当しました。さらに1615年の夏の陣では、道明寺の戦い、誉田の戦いに加わって、その戦功により摂津大坂藩10万石の藩主となり、大坂の戦災復興にあたりました。そしてこの復興の手腕が評価され、1619年に大和郡山藩12万石へ加増移封されたのです。今流にいえば、政府期待の松平忠明が奈良の県知事すなわち大和郡山城主に任命されたというわけです。
  といいますのは、奈良は鎌倉時代から長らく興福寺が治めていましたが、そんな興福寺一乗院の荘園の今井に一向宗の道場がたてられました。その今井庄は本願寺を背景とした環濠集落にまで発展し、興福寺からの弾圧を免れるという特殊な地域となって自治都市「海の堺」と並んで「陸の今井」と称されて栄えた特殊な都市だったのです。そういう理由から、豊臣政権下では大物(秀吉の弟)の大納言秀長が奈良県知事に就きましたが、この大納言は茶の世界で歴史に残る「北野の森の大茶会」を主催した人物です。その裏では松屋他の奈良派の茶人たちが秀長を支えていただろうことがうかがえます。
  このように招かれた客も、招いた側も大和国を治政に関係する男たち、その両者の交流の茶会、今流でいえば県政の責任者と経済界や圧力団体の幹部の会合であったのかもしれません。

〔エッセイスト ほし☆ひかる〕
写真:一期一会の花「木槿」