第830話 ブルトン人の誇り《キッカ・ファルス》
2023/02/10
ソバリエの脇雅世さまから、彼女の「料理教室の生徒さんのために、蕎麦と江戸ソバリエのことを話しませんか」とのお話を頂いたので、喜んでお引き受けした。
その日、神楽坂のスタジオで、40分ほどお話した後、脇さん手作りのお料理をご馳走してもらった。脇さんとご主人と二人の娘さんもご一緒だった。そのうちの脇さんと二人の娘さん(岩下銀さん、加藤巴里さん)はソバリエだから顔馴染み、だけれど今日はお久しぶりの顔合わせだった。
脇さんがおっしゃるには、昼食は何にしようかと悩んだけど、ほしさんならやはり蕎麦でしょうと思いはしたものの、お蕎麦やガレットでは今さら・・・と考えた末に、ブルターニュ地方の郷土料理《キッカ・ファルス》を選んだとのことだった。
確かにブルターニュあるいは隣接するノルマンディーと聞くと、蕎麦粉の《ガレット》と思うところだが、《キッカ・ファルス》というのがあるという。初めて知った蕎麦料理だった。
このように、初めての蕎麦料理に出会うのは、蕎麦についての仕事をしているせいかたいへん嬉しく、また興味深いので、さっそくお皿の上のお料理を拝見した。
すると大きなソーセージのような蕎麦粉の塊と、牛肩肉と塩漬けにした豚脛肉、そして野菜をポトフのように煮込んだものが盛り付けてあった。作り方を伺うと、この塊のようなものが「ファルス」といって、蕎麦粉、卵、肉を煮た汁、生クリームを混ぜて捏ねてから煮たもので、蕎麦料理《キッカ・ファルス》の主役だという。ただ「郷土料理」というのはその地方の「家庭料理」であるから、各家庭で少しずつ違うらしい。
さっそく、フォークなどを使って頂くと、煮込んだ蕎麦粉の塊は肉汁の味がした。へえ~! 日本の蕎麦感覚とはまったく違う遊牧の味がする。驚いたが、よくよく考えれば蕎麦はもともと遊牧民族の食べ物だった。だから、これが元来の蕎麦料理なのかもしれないなと思いながら、美味しく頂いた。
ところで、今日のように未だ訪れたことのない所の、いわゆる「郷土料理」を楽しむには、食べた後でもよいから、その地方について少しぐらい知っていた方が味わいはより深まると思う。
そんなわけで、家に帰ってから、パラパラとフランスの本を捲ってみた。
それによると、ブルターニュ地方というのは、フランス人とは民族が異なるブリトン人の居住地らしく、10世紀にはブルターニュ公国と称していたという。公国は隣接するフランス国の併合策に抵抗を続けていたが、1488年、公国フランソアⅡ世の娘アンヌ・ド・ブルターニュ(1477~1514)とフランス王シャルルⅧ世の結婚(1488)によって、公国とフランスは一旦「同君連合」という形に落ち着いた。だが、アンヌの死後、ついに公国はフランス王国へと編入されたのだという。
この話は15,16世紀のことだけど、小国の独立を守ろうとした公女アンヌは、プルトン人の記憶のなかにいまも生き続けているのだそうだ。
それで蕎麦は?というと、先ずブルターニュ地方を食の視点から見ると、沿岸部は「漁師の国」、内陸部は「森の国」とよばれるくらい海と森の自然と食材に恵まれながら、農業には向かない痩せた土地がほとんどらしく、育つ作物といえば蕎麦くらいしかなかったらしい。
「漁師の国」、「痩せた土地」と聞けば、対馬の光景と似ているように思える。日本では朝鮮半島から伝わった蕎麦は対馬を経て日本列島に上陸したのであるが、ヨーロッパではブルターニュやノルマンディーに上陸し、ヨーロッパ全体へ広がったたのであろうか。
そのブルターニュで蕎麦生産が始まったのは15世紀、すなわちアンヌ・ド・ブルターニュの時代ということになっている。ここでアンヌが登場するわけだ。彼女は、十字軍などによってもたらされた蕎麦が痩せた土地でも育つ農作物だと聞いて、貧困に苦しむ領民たちの食糧源確保のため、自らが所有する領地に蕎麦栽培を許したと伝えられている。そのためか、ブルターニュの人々はいまもなお蕎麦に強い思い入れがあるという。そんな生活のなかから生まれたのが、頂いた《キッカ・ファルス》なのだろう。
蕎麦と女帝といえば、日本の7~8世紀にも飢饉に備えるために蕎麦栽培を推奨した氷高皇女(元正天皇)という人がいた。こちらは日本の正史『続日本紀』に記録されている史実であるが、ブルターニュ、日本、ともに昔の領主は領民のための善政を行っていたようである。
だからなのか、《キッカ・ファルス》は、歴史的にも栄養的にも滋味深い食べ物のように思う。
(脇家の皆様、ごちそうさまでした。また良い体験をさせてもらいました。ありがとうございました。写真は新刊と、著書にある三姉妹?のご紹介。中央が雅世さま、右は銀さま、左が巴里さま)
WAKI & PARIS↓
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〔江戸ソバリエ協会 ほし☆ひかる〕