<コンビニ創業戦記・附伝>「鈴木貞夫・言行録」第1回

      2016/07/15  

<プロローグ>

2006年(平成18年)5月のローソン退任直後から、「コンビニ創業戦記」と銘うって、「サンチエーン創業物語」から「DCVS回想録」へと、月一回のペースで書き進んできたが、いつのまにか私も傘寿をすぎて、人生の残り時間が非常に気になるこのごろである。

この際、戦中戦後の少年時代から今日までの自分の人生における、その時々の「自らの考え方」の変遷の記憶を、手元に雑然と未整理のまま残してきた現役時代のスピーチメモや会議などでの発言記録、公開の場での講演資料などをもとに、辿って見ようと思い立った。

大体において人前での公の発言は、立場上の建前やきれい事が多くなりがちなのであるが、それでも、その時点の状況認識や主張・論点の重点などは、自分の本音がおのずから滲み出ているものである。

それらを時系列で追跡する事が出来れば、自らのこれまでの人生における「思考変遷の軌跡」が浮かび上がるかも知れない、と大それたことを考えた。

本来そのようなことは、第三者が客観的に行うことなのであろうが、それは功成り名遂げた偉人の場合のことである。

それを、「自ら自身のことをやってみよう」、と云うのだから、主観的、自己中心的な偏りのあるものとなる恐れも大いにあるが、それでも何か参考になるようなものができればと思い、敢えて挑戦することとした。

最近は、平均寿命が延びて、百歳を超える長寿・現役の方々も多くなっているから、そういう先輩長寿者の栄光にあやかることができれば、まだ少し残り時間があるような気もするが、問題は自分が、何歳まで健康寿命を維持できるかである。

私も、育ち盛りに戦中戦後を過ごした飢餓世代の一人であり、若いころには相当無茶もしているから、どこまで持つか余り自信はないが、これからも健康維持に日々精進しながら、出来るところまで挑戦して見たいと思う。

「目標の有るところ、必ず道は開けるものだ」とは、これまでの人生経験で体得した確信である。

どういう結末になるか、皆目見当がつかないが、その確信のままに突き進んでいきたい。

本論に入る前に、戦中戦後における私の少年時代を振り返っておきたい。

【小学生時代の記憶】

-――1939年(昭和15年)4月~1946年(昭和21年)3月――(7~12歳)

「朝鮮・仁川昭和西公立国民学校時代」

私は小学校6年生の時に、当時の朝鮮・京畿道仁川で終戦を迎えた。終戦直後の混乱のなかを、今の韓国となっている南朝鮮から、母と弟の3人で引揚て来た。

従って、その頃の記録や資料はほとんどない。またその頃のことを知る人も既に居ない。あくまでも私の記憶を辿るしかない。

とっくに亡くなった父や母とも、その頃のことについて、じっくりと話し合ったり、確かめ合った記憶はない。

両親にとって、それまでの人生の全てを失うことになった戦前戦中のことは、思い出したくもない事でもあったからだろう。

今となれば、まことに残念なことであるが、やむを得ないことである。

戦前から戦時中、私たちの家族は当時の朝鮮・仁川府富平町に住んでいた。

父は、そこで煉瓦造成工場を経営していた。

100人ほどの現地従業員が働いていたように覚えている。

当時の仁川は、日本海軍の軍港であり、富平には、大規模な造兵廠(兵器製造工場)が設けられていたから、あるいは、軍事用建設資材を供給する目的があったのかもしれない。

父の名は、勝利(かつとし)といった。明治38年生まれであったから、日露戦争の勝利に因んで名付けられたものであったろう。

幾分、軍人気質が強かったかもしれない。

母は二三子といい、大正2年生まれ、両親共に、現在の鹿児島薩摩川内市の出身であった。

父は2度召集されている。1度目は支那事変の頃、私が3歳ぐらいのことで、私の記憶にはない。1~2年後に負傷して帰還したという。

2度目は、太平洋戦争時、私が小学校4年ごろで、もう日本の敗色が濃くなり始めていたころであろう。

京城の部隊本部まで、2回ほど、母と面会に訪れた記憶がある。父はそのころ既に古兵であったから、軍隊特有の新兵の苦労はあまりなかったようだ。

1年ほど経って一時休暇で帰宅したことがある。父は軍曹の肩章を付け、剣を帯びていた。私は興味本意で抜いてみたが、刃こぼれなどがあり、余り手入れされているようには見えなかった。

近く新しい戦地へ向かうための休暇のようであったが、行先は云わなかった。おそらく知らされてはいなかったのだろう。

その時を最後に、音沙汰がなくなり、終戦後、父が突然に故郷・鹿児島川内に復員してくるまでは、何処に居るのか判らない状態が続いた。

その間、終戦間際の昭和20年8月6日に、妹・節子が風邪をこじらせて、肺炎で亡くなる不幸に見舞われた。まだ幼い3歳であった。

一番悲哀に打ちひしがれたのは母であった。一人娘であり、「お父さんに申し訳ない」と繰り返し泣いた。

引き揚げてきてからも、、晩年になっても、「節子が生きていたら」と、折節に語ったことを思い出す。

小学6年生の私と3年生の弟、そしてまだ幼い3歳の妹と4人で送る父不在の外地暮らしは、母にとっては、想像を絶する孤独な苦しい闘いであったに違いない。

妹の病気にも、敗戦まじかな朝鮮で、食料も、病院や医師も、薬も少ない時代であり、十分な手当ができなかったからである。

母は引き揚げの時、節子の小さな骨壺を背負って持ち帰り、故郷の墓に納骨した。

私が通った小学校は、内地人だけのために設けられた仁川昭和西公立国民学校であった。

生徒数は、1学年30名ほどであった氣がする。全学年200名ほどの小さな学校であった。

近くに現地の子供たちのための小学校があったが、そちらはおそらく1500人を超える大きな規模であったと思う。

吉井先生、桑原先生、間宮先生の名前を覚えている。

特に吉井先生は女教師で、私が低学年の時の担当であった。

一度何かの用事で教員室に行った時、「この子は頭のいい子なのよ」、と何気なく話してくれたことは、忘れられない思い出である。

あるいは、悪戯でもして叱られに呼ばれたのかもしれないが、吉井先生にそう云われたことは、幼い私にその後の人生を生きていく上で、何か自信のようなものを与えてくれたような氣がしてならない。

吉井先生は戦時中に、病気のために亡くなられた。肺結核と聞いた。子供心にも本当に寂しいことであった。

私にとっては今でも、弁天様か観音様のような温かい存在であるように思える。

同級生で名前を覚えているのは、小西君、三好君、増田君、山坂君、旗君、水森さんなどである。

ほとんどが、日本全国から赴任していた造兵廠の軍関係、鉄道、警察などの公務員や、企業幹部、商店主などの子弟であったと思う。

水森さん一家は、当時直ぐ近く住んでおられ、父不在中の自宅で行った妹・節子の葬儀では、家族ぐるみで大変にお世話になった。

水森さんとは、大学生時代に一度、東京でお会いした記憶があるが、その後お元気でおられるだろうか。

残念ながら他の諸君とは、戦後音信が絶えたままになったが、時に当時のままの顔が思い浮かぶのである。

みんなで、戦闘機の燃料になるという「松根油」掘りに何度も山へ登ったことや、校庭で防空壕掘りの作業をしたりしたこと、戦争ごっこで遊んだ小学生時代の記憶などが、今でも断片的に浮かんでくる。

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(手元に残る誕生記念写真と国民学校時代の写真)

「太平洋戦争の開戦時と敗戦時の記憶」

子供ながらも、開戦時と終戦直後の忘れられないことがらを二つ上げてみたい。

一つは、太平洋戦争開戦の日のこと。

「大本営発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西南太平洋上においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態にいれり」、

という有名なラジオニュースを聞いた日、レンガ工場の事務所で、ニュースのことを興奮して伝える小学2年生の私に、現地人管理職の一人から、「日本はアメリカには勝てないよ」と云われたことである。

子供の私だから氣を許して、本音を云ったのかもしれない。父であれば決して云わなかっただろう。

私もその事は、誰にも告げなかった。告げてはいけないことだと、どこかで思っていたのだと思う。

彼は、父の信頼の厚い、日本の高等教育を受けた朝鮮人インテリであり、日本語がとても上手で、日ごろから子供の私にも親切に言葉を掛けてくれる40代前後の有能な人物であった。

私は子供心にも、「そんなことはない。日本は神国だから」と反発した。彼はいつになく冷やかに笑い、それ以上は答えなかった。

彼の予言は、数年後に完全に正しかったことが証明されることになる。

現地のインテリたちは、客観的に世界の情勢を掴み、日本と日本人を冷静に観察し、日本の運命を予感していたのだと、今さらながらに思うのである。

 二つは、昭和20年8月15日・終戦の日のこと。

 夏休み中であったこの日、急遽集合させられた学校の校庭で、整列して、昭和天皇の「終戦の詔勅」を聞いた。

聞き取りにくいラジオ放送で、内容はよくわからなかったが、先生たちは涙を流して、「戦争は終わりだ。日本は負けたのだ。」と語ったのを覚えている。その日が、学校とのお別れとなった。

その直後から、「敗戦・亡国の民の悲哀」を、子供心にも、身にしみて感じる事になる。

その夜から連日続くことになった、「独立万歳のデモ行進の人の波」と、「掲げられた大韓国旗の旗の波」に大きな衝撃を受ける。

つい昨日まで、同じ日本人だと思いこんでいた現地の人たちの本当の心が、実は「独立の回復にあり、日本の敗北を望んでいた」のだということは、いまでは当然、必然のことであったと理解しているが、その時の子供心には、天地が逆転したような驚きであった。

その夜から日本人たちは近くへ寄り集まり、ひつそりと隠れるように暮らすことになる。

働き盛りの男は、ほとんど召集されていたから、中高年世帯と子供のいる女世帯が中心で、どうすれば一日も早く内地へ引き揚げられるかを相談し合っていたと思う。

終戦後1週間ほどして、仁川から上陸して来た米進駐軍の兵員と戦車・装甲車・砲車などの車列が京仁街道を半月以上続いたように思う。

京城(ソウル)と仁川(インチョン)間には、鉄道・京仁線の富平(プ―ピョン)駅があり、軍用道路として完全舗装された京仁街道が通っていたからである。

日本軍兵士が京仁道路の両側に背を向けて整列し、米軍の通行を護衛する有様も見た。

戦時中軍国少年のはしくれであった私にも、皇軍の夢消えた敗残日本兵の武装解除される姿に、切切たる悲哀を見たような感じがしてならない。

「引き揚げ時の記憶」

引き揚げに伴う記憶は、仁川から釜山までの貨物列車での南行行程の記憶と、釜山での引き揚げ船に乗船するまでの共同生活の記憶、そして本土・仙崎に上陸してから、仙崎から川内に帰えり着くまでの列車行程の記憶、という三つのプロセスからなっている。

父の安否の消息が全く分からないまま、昭和20年11月初め、母と私、弟の3人、着の身・着のままで、父の実家のある鹿児島・川内へ引き揚げて来た。

当時の朝鮮からの引き揚げが、本格的な酷寒の冬が到来する前に、比較的早期に実現できたのはまことに幸運であった。

仁川が38度線以南の現在の韓国側であり、米軍進駐が一段落して治安が落ち着いていたことが、北朝鮮や満州などに居住していた日本人引揚者との大きな違いとなったように思う。

加えて同じ富平からの引揚者グループに鉄道関係者がいて、現地鉄道との交渉が行われ、ようやく実現したでことであったに違いない。

と云っても、実際の引き揚げの行程には、いろいろな不安な出来事が重なっていたと思う。

仁川から釜山までの列車は、貨物車を借り切って、皆が隠れるように雑魚寝する荷物並みの扱いであったし、途中駅で何度も停車しては条件交渉が繰り返されていたようでもあった。

一番怖わかったのは、引き揚げ初日、仁川から京城まで貨物列車で移動して、龍山操車場に一晩停車していた時の深夜に、酔ったアメリカのGIたちが数名、ドンドンとあちらこちらの貨車の扉を叩いて、大声をあげて騒いだことである。何を叫んでいたのかは、勿論分からない。

大人たちも、「静かにして、絶対に声を出さないで」と、注意しながら、非常に緊張していたと思う。

どのくらい時間が経過したか、やがて声が遠ざかり、みんなで一様にほっとしたことはいつまでも忘れられない出来事である。

 また、列車が走っている日中に、釜山から京城に北向する列車とすれ違うことがあったが、行き交う列車には、軍服姿の復員兵たちが鈴なりに、屋根の上にまで乗っているのを何度も見た。

おそらく復員兵たちは、自分が元々住んでいた地域へ、家族の元へ、一刻も早く帰ろうとしていたに違いない。

だが家族の中には、既に引き揚げのために移動し始めていた人も多かったはずだから、すれ違いになった人々も出たであろうと思う。

母は、「あの中に父もいるのではないか」などと云いながら、目をこらしていたが、どうすることもできなかった。

このようにして、普段なら半日の行程を、3日ほどかけて釜山に到着したと思う。

その頃の釜山には、本土への引き揚げを求める日本人たちが、南朝鮮のあちらこちらから、日々続々と雲集していた。

引き揚げ船に乗るまでに、釜山で半月以上待たされたような氣がする。

その間は、港を見下ろせる台地に残された日本家屋、すでにガラス戸も、障子も、襖もなくなり、屋根と壁だけになった風通しのよい廃墟のような空き家での集団生活であった。

季節は10月の初めであったが、雨露がしのげるだけで幸運といえたかもしれない。

交代で炊き出しを行い、夜具もないまま雑魚寝したと思う。勿論、風呂に入ることなど出来なかった。

グループの大人たちは毎日のように、引き揚げ船への乗船がいつになるのか、手続きと順番の確認に懸命な努力を重ねていたことであろう。

漸く乗船の日がきた。

引き揚げ船は貨物船、私たちは甲板に乗船した。身動きできないほどに詰め込まれていた。

出航は夕方であった。真夜中に玄界灘を越えるのである。風が強く、ほとんど眠れなかったと思う。

日本海では機雷がまだ浮遊しているとのことで、日本の駆逐艦が護衛していた。米軍の軍艦も併航していたと思う。

門司港は機雷がまだ除去されていないために、山口県の仙崎港に到着する。

仙崎港は遠浅で、船は桟橋に横付け出来ない構造で、1キロほど離れたところから小舟に乗り換えて桟橋に上陸するため、非常に待たされることになった。朝まだ暗い内に仙崎港に到着して、上陸したのは夕暮れであったと思う。

上陸早々に、 出迎えのたすきを掛けた地元婦人会の人々から、「ご苦労さまです。お帰りなさい。」、とお握りをもらい、涙が出るほど嬉しかったことを覚えている。

波止場から駅までの道筋に、満州から運ばれたという高粱の入った麻袋が、山積みのまま、腐敗し、異臭を放って放置されていた。

おそらく食料として満州からはるばる運ばれてきたものであろうが、空襲などで鉄道が分断され、運び出す間もなく雨ざらしで放置されていたものであろう。

それは、上陸直後に最初に見た敗戦国の無残な姿であった。仙崎では、空襲による焼け跡には全く氣付かなかった。

仙崎駅から下関駅までは夜行列車であった。寿し詰めであったが、疲れ切って眠り通しだった。

翌朝、下関駅から門司港駅まで、連絡船に乗り換えた。

門司港駅で、お握りとお茶の支給を受けた記憶がある。

門司港駅から鹿児島本線を川内駅まで、通路にもぎゅうぎゅう詰め、身動きもできない満員列車であった。そのころの客車は、まだ窓ガラスなど欠けており、停車する駅毎に、窓から出入りする人も多かった。

蒸気機関車の吐きだす石炭の煙で、トンネルを抜ける度に、みんなの顔が黒く染まったが、氣にとめるゆとりもなかった。

各駅停車で走りゆく車中から見えた沿線の風景は、市街地の見渡す限り焼け野原の光景であった。

朝鮮でも、米軍空襲の警報は、かなり頻繁に出されていたが、軍の基地にときたま爆弾が落とされるだけで、市街地のほとんどは全くといっていいほど、爆撃を受けていなかった。朝鮮では、空襲の焼け跡など見たことがないのだ。

敗戦直後、日本人が引き揚げた後の日本家屋が、廃墟のようになっていく姿は、目にすることはあっても、一望の焼け跡などは見たことがなかった。

川内までの門司、小倉、博多、久留米、大牟田、熊本、水俣、出水などの主要都市は云うに及ばず、その間の小さな駅に至るまで、駅前の風景は焼け野原一色に見えた。よくまあこれほどまでに焼き尽くされたものだ。

駅と駅との間の海岸線や、山並み、そして田畑の連なる田園の有り様などは、おそらくいつもの平穏な姿とあまり変わっていなかったと思うが、それと市街地の焼け野原という異様な光景との断裂を、ただただ茫然と見過ごしていくよりほかに、どうしようもなかったのである。

早朝に門司港駅を出て、何時間かかったのであろう。川内駅に着いたのは、夕暮れであった氣がする。

川内駅も、駅前はやはり一面の焼け野原であった。

駅員に、父の実家のある「平佐麓や城山は無事でしょうか」と尋ねると、「駅裏は、焼け残っていますよ」と答えた。

母の疲れ切っていた顔が、一瞬明るく輝いたのを思い出す。

駅裏の父の実家が焼け残っていたことは、奇跡のような幸運であった。

留守を守っていた祖母や叔母たちの驚きと喜びは、私たちの突然の帰国を、全く予想していなかっただけに大きかったことであろう。

その夜、何か月ぶりかに、親子3人で風呂に入り、祖母たちが用意してくれた、その頃にしては、まともな食事を食べ、家族枕を並べて布団で眠るという、引き揚げの途中願い続けてきたささやかな平安の夢を、漸く叶えることができたのである。

父が鹿児島・川内に復員して来たのは暫く経ってからである。朝鮮・済州島の守備隊として米軍の上陸に備えていたという。

                                       (以下次号に続く)