第838話《蒸蕎麦》《熱盛蕎麦》《湯通し蕎麦》

      2023/06/21  

 ~二十余年ぶりの「ちく満」の名物蕎麦~

 阪堺電車に乗るために環状線の天王寺駅に着いた。駅前にはアベノハルカスが聳え建っていた。
 阪堺電車というのは路面電車であるが、二十余年ぶりの再会であった。阪堺電車の天王寺駅にはすでに「あびこ道」行きの電車が待っていた。何か見覚えがあるような車両であるが、目的地の宿院駅へ行くには「浜寺駅」行きが乗り換えなしで都合がよい。駅員さんに訊くと一電車後がそれであるというから、待つことにした。やがて停まっている電車は出て行き、入れ替わって浜寺行きがやって来た。それは今いた電車より新しい型である。そこでちょっとスマホのネットで調べてみると、この電車は2013年から走っていて、先行の電車は1987年から走行している「704」型とある。つまりは20年以上前に乗ったときも走っていたことになるから、見覚えがあるのも道理だと思った。
  宿院駅は天王寺駅から23番目、大阪市から堺市へ行くのだからそのくらいはかかる。しかし路面電車の駅から駅までは1分ちょっとぐらいしかかからないから、35~40分で着くだろう。
 路面電車は街中を行く。途中に海の神を祀っている住吉大社の脇を通った。全国の住吉神社の総本社である。住吉は「墨の江」ともいう。北九州の古代海部族のうち入れ墨をした一族が東進して近畿にやって来たともいわれている。そんな話は伝説にすぎないと思われるかもしれないが、堺の東には世界一巨大な仁徳天皇陵はじめ百舌鳥古墳群が在ることを思えば、古代の話に勢いがましてくる。その住吉大社の旅所だったところが駅名になった「宿院」らしい。
 宿院駅に着いた。近くには利休邸跡もある。
 これから訪れようとしている蕎麦屋は「ちく満」という老舗だ。大道筋にあったはずである。歩いて行くとすぐに分かった。20年以上前に来たときは、いかにも和風の古い玄関だった。今は新築の真新しい和に変わっていたが、改築が済み営業を再開したと聞いていたので、やって来たわけである。
 昔、初めて来たときは堺の友人と一緒だった。彼が言うには店自体は江戸の元禄年間の創業だが、蕎麦の商いは昭和かららしい。
 新装開店した「ちく満」は解放的な厨房になっていた。だから打った蕎麦の束を舟から取り上げ、熱湯に漬けて(湯通して)から器の蒸籠に盛っているところが見える。その《熱盛》を仲居さんが受け取って運んできてくれる。蕎麦つゆもかなり熱い。器の蒸籠は漆ではなく、素のままであるから蒸し蒸籠の雰囲気がある。
  そういえば、巷間では、昔の蕎麦は蒸していたということが、まことしやかに囁かれている。たとえば、器の蒸籠はその名残だとか、蕎麦は菓子屋で作っていたが、そのころは蒸していたとかという話である。
  この話の出所は、1684年ごろの史料(『軽口男』『好色一代女』『俳諧如何』)に《蒸蕎麦》という言葉が載っているところによる。
 ただ《蒸蕎麦》とは1)どんなものか、2)またどうやって作ったのかは明確でないし、3)作ったとしてもその道具は発見されているのか、はっきりしない。ここが問題である。
 この点について、『定勝寺文書』に「蕎麦切」の文字を発見した関保男氏は別の寺院の史料で「蕎麦甑」の存在を確認したと述べている。もしそうなら大発見であるため確認したく思ったが、残念ながら同氏は亡くなられているので、同氏の業績に詳しい小林計一郎氏に電話でうかがったところ、その件は本人から話を聞いていないので、分からないとのことであった。
  話は少しちがうが、糯米を蒸す甑(蒸籠)であるが、実はあまり発見されていない。「あまり」というのはどういうことかというと、粳米を炊く釜は各家ごとに必ず在ったが、糯米を蒸す蒸籠(甑)は村単位で一個ていどしか発見されないという。ここから、民は日常、各家で粳米を炊いていたが、村の祭りとか特別な日だけ、村の行事として糯米を蒸してしたのではないかと、「日常の“炊く”と非日常の“蒸す”」の関係が明らかにされている。このようなことと類似に思考すれば、麺は基本的(日常)には茹でいていたが、17世紀後半ごろ《蒸蕎麦》なるものが一時(非日常)的に流行ったとも考えられる。
 しかし、それにしても①ほんとうに蒸籠で蒸していたのか、②それともこの「ちく満」のように熱湯に漬けていた《熱盛》がそうなのか、③あるいは横浜一茶庵の片倉先生が教えてくれた大田区の「美月」のように、単に《湯通し》しただけのものなのか、④それとも《蒸蕎麦》《熱盛》《湯通し》と呼び名はちがってもみな同じものなのか。と疑問がわくが、そもそもが江戸初期に「品名」が正確に定まっていたかどうかも疑わしい。それを思うと④が一番現実的である。

  そこでまとめると、17世紀末に《蒸蕎麦》なるものは確かに存在していた。しかし蒸籠や甑の存在が明らかでないところから、《熱盛》《湯通し》を含めて一時に流行った蕎麦切であって、決して「蕎麦は昔、蒸していた」ということではなさそうだ。加えて、菓子屋云々説も、当時すでに麺処はたくさん存在していたことから、そういう菓子屋もあっただろうということになる。
  そもそもが麺発祥の古い中国でも蕎麦を蒸していた形跡はなさそうである(ただし莜麺は蒸していた)。それなのにこのような説があるのは、「蕎麦切は日本発祥である」という江戸時代の狭量認識が前提にあるかと思われる。

 一応の自分なりの結論を得たので、再び宿院駅から阪堺電車に乗って天王寺に行って、そこから環状線で大阪へ、そして新大阪20:00発のぞみ252号(N700系)で東京に戻った。

           〔江戸ソバリエ ほし☆ひかる〕