第856話「将軍家献上 暑中信州寒晒蕎麦」

     

 銀座NAGANOで、「将軍家献上 信州寒晒蕎麦」を味わう会が催された。
 「寒晒蕎麦」は今まで各地で食べたことがあったが、No.1の地の寒晒蕎麦は食べたことがなかったので、参加しようと思った。
 この「No.1」というのは、ちょっと説明がいる。
  実は、ちょうど10年前、2013年(平成25年)に長野県茅野市商工会議所主宰で「寒晒蕎麦シンポジウム」が開催されたことがあった。
   そのとき、私は基調講演を依頼されて「寒晒蕎麦」についてお話させていただいたが、そのときの話がこうだった。

享保7年(1722年)高遠藩は、これまで11月に塩引酒鮭を将軍家に献上していたが、内藤高遠藩2代藩主頼卿の代から、将軍家への暑中ご機嫌伺として寒晒蕎麦一箱を献上することになった。
1789年から、高島藩(7代藩主諏訪忠粛の代)が1789年から将軍家に「暑中寒瀑蕎麦」を献上した。(史料には「瀑」の字が使われている。)
しかし、平成25年ごろの高遠町では寒晒蕎麦が廃れていて、昔の諏訪藩である茅野市が伝統を継いでいた。
 だからそのときの講演で、私は「信州が寒晒蕎麦発祥の地であるから、茅野市の寒晒蕎麦は本場ものだ」と申上げた。つまり、史上で最初に明記されている信州高遠藩の寒晒蕎麦を「No.1」とし、続く信州諏訪藩の寒晒蕎麦を「本場もの」として、微妙に使い分けたわけである。

 寒晒蕎麦というのは、小寒の日(今年の暦でいえば、旧暦:11/25・新暦:1/6)に、玄蕎麦を約30日間水に浸し、立春の日(旧:12/25・新:2/4)に取り出して寒風に晒し、それから天日干しでつくる。おそらく高遠藩で入野谷近くの三峰川か黒川の冷水に浸したのだろう。ともあれ、高遠藩、高島藩のような寒冷地ならではの献上品ということになる。
  この「献上品」というのは今でいえば「特産品」、または「ブランド品」につながる。
  江戸時代に蕎麦を献上していたのは、全国で9藩(1信濃国高遠藩、2同国高島藩、3同国飯山藩、4武蔵国岡部藩(現在:深谷市)、5上野国小幡藩(現:甘楽町)、6同国沼田藩、7同国館林藩、8下野国大田原藩、9出羽国天童藩)だったという。

 ところで、最近の伊那・高遠の蕎麦への取り組みは目覚ましい。入野谷在来や高遠薬味の復活、そして信州の中でも最初に「寒晒蕎麦」を世に知らしめた高遠町が寒晒蕎麦を復活させたのである。まさに眠れる獅子が目を覚ましたと言うべきだろう。
 そんなこともあって、先に述べたようにNo.1の地の寒晒蕎麦を食べたいというという気になったわけである。

 頂いた蕎麦は大変美味しかった。蕎麦そのものの美味しさの基準のひとつに、汁を付けないで食べられるというところにあるが、今日の蕎麦もそうだった。それは蕎麦を美味しく打ってあったからだろうが、加えて江戸蕎麦式であったから、私の口に合っていたせいかもしれなかった。
 その点からも、今日の蕎麦を打った「壱刻」さんの説明も納得いくものであつた。
  将軍に献上した、「寒晒蕎麦一箱」とは寒晒蕎麦の実なので、打ったのは江戸の職人だろう。だから今日は江戸式の蕎麦にした。でも当時の高遠の人たちは入野谷在来を高遠式のつゆで食べていたと思うから、高遠では高遠式で食べてもらうようにしたい。まさに「郷土食は、郷土の空の下で食べるべし」の精神である。
 さすがに日ごろから勉強されている「壱刻」さんは、江戸蕎麦と郷土蕎麦の違いをよく理解されていると思った。
 ごちそうさまでした。 

〔江戸ソバリエ協会 ほし☆ひかる〕