第868話 音-戯-話 「ナゼススルノデスカ」
2023/12/18
「おとぎ話」と読む。ソバリエの横さまから、その日ちょっと行けないから、代わりに行ってほしいとチケットを頂いた。パンフレツトを見ると、音楽寸劇のようだけどよく分からない。ただ、演目の一つに「ナゼススルノデスカ」というのがあったから、興味津々・・・会場へ向かった。
その日、演じられたのは四つ。二つは音楽遊戯。二つはコミカルな音楽劇。そのうちの「賢いグレーテル」は料理人の話。「ナゼススルノデスカ」は、パスタの国のイタリア人が日本へやって来て、蕎麦食にチャレンジするという話。蕎麦店に入ったイタリア人は啜って食べる音に困惑するが、店主が「郷に入れば郷に従え」と蕎麦を啜って食べることをススメ、最後は「啜ると美味しい」と言ってくれたイタリア人に思わず拍手したくなる、日本流にいえば狂言ような面白く、楽しい音楽寸劇だった。
この話の台本と作曲を担当した杉原由利子さんの紹介欄を見ると、好きなものは麺とあり、前回は「ごめん(麺)くださいませ」を書いたという。
とにかく、日本人の私としては落ち着く所に落ち着いてよかったという感想である。
この「啜るのススメ」で思い出すのが、NHK-TV『解体新ショー』に出演したときだった。テーマは「ソバをすするとどうしておいしいの?」(ディレクター原良太朗:放送2008年)。先ず江戸ソバリエの店「蕪村居」(江戸川区)で蕎麦を食べるところを撮影した。驚いたことに、店内のお客は全員エキストラで占められた。皆さんは本物の客のように自然体で食べている。さすがはNHKだと感心した。その次の撮影は神戸松蔭女子学院大学(神戸市)だった。同大学の坂井信之先生の実験により、蕎麦を啜ると、蕎麦の香りは脳の「眼窩前頭皮質」で認知されるということが証明された。
だから、今宵の杉原由利子作の蕎麦屋の店主の指導は正しかったということになる。
では、なぜ日本人は啜るようになったのだろう?
それは、「日本人は鎌倉時代から箸だけで食べるようになったから」である。つまり右手でお箸を取り、余った左手で食器を持つようになった。だから碗などは持ちやすいようにやや小さく、あるいは軽めの木椀と白磁の碗を使うようになった。それに持って食べた方が、日本の衣服の特徴である長く、大きい着物の袖が汚れなくて済んだのである。
加えて、日本列島は湿気があるため、日本人は臭いに敏感でなければならなかった。そのため食べ物を鼻の近くまで持っていく必要があった。その行為から危険な臭い、美味しそうな匂いを感じとる能力を得た。ちなみに研究によると、乾燥した空気では30%しか香りを感じないが、湿度が高いと80%香りを感じるという。われわれ動・植物はその気候、その土で生まれ育つものである。
これが寸劇の中で店主が言う「郷に入らば郷にしたがえ」ということである。
それがなぜズ・ズ・ズ論争にまでなったかというと、敗戦後の日本人が欧米文化(マナー)にしたがったからである。
蕎麦の食べ方の劇として有名な河竹黙阿弥の『天衣粉上野初花』(または『雪暮夜入谷畔道』ともいう:明治14年公演)の台本では、とくに啜って(音を立てて)食べる記述はない。ただ主役の五代目尾上菊五郎に粋に食べることだけを指導している。
また、蕎麦の食べ方を記してある小説として有名な夏目漱石の『吾輩は猫である』(明治38年発表)でもとくに啜って(音を立てて)食べる記述はない。
なぜかというと、啜って食べるのが普通であって、海外との比較する機会のない、当時の日本人はそれに伴う多少の音については当然すぎて問題視していないのである。
であるのに、「啜って食べる(手繰る)」がいつのまにか「音を立てて食べる」という言い方に変わってきた。その犯人は落語「時蕎麦」である。以後、蕎麦といえば落語のズ・ズ・ズを思い、「あんな下品な食べ方は嫌!」と、とくに女性から声が上った。その背景には洋食一流・和食二流という、いわば敗戦後の日本文化軽視卑下と欧米文化への憧れがあったからであると思う。
というわけで、かの杉下右京のように落語犯人説を特定しながらも、親しい落語家がたくさんいる私は何も言えずにいた。ところが、ある落語会で柳家権之助師匠(師匠の奥さまはソバリエさん)が「ハイ、みなさんズ・ズ・ズと思い切り大きな音を出して食べてみて、もっと、もっと、もっと・・・。ネ、こんな風にバカやってんのが、落語なんですヨ。」と言い放った。
権之助師匠も、杉原由利子さんも、「和食:日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録されて10年も経ったのだから、もうズ・ズ・ズ論争にはけりを付けなさいよと言っているのだろう。
江戸ソバリエ協会 理事長
和食文化継承リーダー
ほし☆ひかる