第873話 白磁光明物語 蕎麦猪口編 、一

      2024/01/10  

一、多久の龍造寺家久のこと

 「白磁の茶碗や皿小鉢が暗い台所に光を与え、清潔が白色であることを教えた功労は大きい」。
 民俗学者柳田国男は『木綿以前の事』でこう述べている。
 それまでの日本人は行燈の下で、木椀や陶器などの地味な食器を使っていたが、白磁の登場によって光明が射したように台所が明るく清潔になったというのである。
 その白磁(磁器)を日本で創り上げたのは、有田の朝鮮人陶工李参平(イ・サンピョン)(日本名:金ケ江三兵衛)だったと伝えられている。参平については、黒髪酒呑童(筆名)という人が書いた小説『陶工李参平公の生涯 日本磁器発祥』が大いに参考になる。
 黒髪というのは有田にある山であり、筆名からして氏は山と酒と、そして地元の有田をこよなく愛する人であろうことがうかがえる。
 その黒髪氏の小説によれば、参平の生まれは、忠清道金江(現:忠清南道公州市反浦面鶴峯里)だった。彼の一家は半農半陶の最下層の庶民であったらしい。だからほんとうに「李」という姓をもっていたかどうかは確かではないが、ここでは伝説にしたがうことにする。
 参平の家族は、文禄ノ役(1592-93年、日本軍16万兵)が起きて日本兵に惨殺された。参平は故郷を離れ、全羅道の南原で陶業修業をしていたところに、続く慶長ノ役(1597-98、日本軍14万兵)で肥前佐賀の鍋島軍が攻めて来て、参平は中野神右衛門清明に捕えられた。後から見れば、これが運命の出会いであったが、そこへ豊臣秀吉の死の知らせが入った。日本軍は一斉に朝鮮半島を撤退することになった。鍋島軍も釜山浦を脱出、李参平は藩主鍋島直茂の重臣龍造寺六郎次郎家久(龍造寺隆信の末弟長信の嫡男)の船に乗せられた。

 ここで、話の舞台である肥前国をよく理解してもらうために、肥前を平定して「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信と肥前佐賀藩を作り上げた鍋島直茂について述べておこう。
 ただし一地方のことであるため、他県の方には分かりづらいところもあるかもしれないが、このなかに白磁を産出した種のようなものが見受けられるから、耳を傾けてもらいたい。
 話は、隆信が20歳のとき龍造寺惣家を継いだことから始まる。隆信は織田信長より5歳上だった。当時、龍造寺家は、惣家の村中龍造寺(現:佐賀市城内1丁目)と、分家の水ケ江龍造寺(現:佐賀市中の舘)があった。村中というのは、竜造寺村の真ん中という意味であり、館は私が通っていた県立佐賀高校を中心にしてあったらしい。ただ隆信は分家の身だったから、隆信を惣家と認めない老臣が近隣の武士団と組んで隆信を攻めて来た。隆信はこれらと戦って勝利し、老臣には死を与え、組した武士たちは部下にした。このころ、隆信の生母が鍋島直茂の父清房の継室となった。また直茂の生母も龍造寺家純の娘であった。こうしたことにより隆信と直茂は一枚岩となって、東肥・西肥の戦いに明け暮れることになった。そしてこれらの戦いに勝ち抜いてきた1573年、甲斐の武田信玄が卒したころだった。龍造寺軍は唐津を攻略し、唐津岸岳城の17代城主波多三河守親(ちかし)が従服することになった。これは大きかった。波多親は嵯峨源氏渡辺綱(つな)の子孫である松浦党の実力者で、松浦党は玄界灘を縄張りとしていたため、有明海しか知らない龍造寺が玄界灘までも手に入れることになったのである。
  そこで隆信は娘の安子姫を波多親に嫁がせた。それによって松浦党の他の面々も続々幕下となった。
 この安子姫の婚姻について、いまサラリと述べたが、少し余計な事を書き加えたい。実は安子姫は、父隆信がまだ西肥で苦戦しているとき、強敵の小田氏に嫁がされていた。それを引き抜かれての再嫁であった。一方の波多氏にも正室がいたが、その妻と離縁しての安子姫との婚姻であった。現代の女性陣から「何ということか」と非難されようが、天下の信長も秀吉も家康も同じような対処をしていることはご承知だろう。要するに「時代」である。それをいうとまた叱られると思うが、過去の歴史を現在の目で見てはいけない。そのかわり歴史は決して過去に戻してはならない、という教訓をわれわれは得なければならないだろう。また同じような目で「白磁光明」の時代変化も観ていきたいところである。
 さて、こうして隆信は肥前を完全平定し、壱岐、対馬、筑後、筑前、豊前と、肥後の半分を従えた。隆信は50歳になっていた。
 そして1580年、九州北部の龍造寺は南部の島津と手を打った。これにより隆信は「五州二島の太守」とよばれるまでになった。その2年後、「天下布武」を印章にしていた織田信長が本能寺ノ変の炎の中で腹を切った。そのまた2年後に隆信は島津・有馬の連合軍と島原で戦い、不覚にも討死にしてしまった。一番驚いたのは鍋島直茂だったろう。秀吉は即刻信長の敵討ちを果たし、諸国の戦国大名たちをアッといわせたが、直茂は敵討ちに走らず、隆信が手中にした肥前を固め、それを秀吉も認めて鍋島直茂は肥前領主を継いだ。
 その後、全権力を握った太閤秀吉は、こともあろうに朝鮮出兵の挙に出た。これが文禄ノ役、慶長ノ役である。秀吉の侵略に大義はなかった。あえていえば、家臣への褒賞の地を海外に求めたことか、あるいは朝鮮の見事な茶碗を手に入れたかったことかもしれなかったが、当時は天下の秀吉に誰も抗うことができなかった。いつの世も権力者の暴走を止めるのは権力者の死しかない。秀吉もそうであった。
 秀吉は死んだ。日本軍は引き上げた。各藩の船には多数の朝鮮人が乗っていた。陶工として使おうと無理に連れて来た藩もあった。なかには終戦になって、今まで日本軍に協力したことを同邦の者から責められることを恐れて自ら国を去る者もいた。とくに九州各藩は多くの者を伴っていたが、後の萩焼、楽焼などもこうして生まれた。なかでも鍋島藩が連れ帰った朝鮮人陶工は数千人と飛びぬけて多かった。なぜか? これが私の疑問だった。そこで黒髪氏に尋ねてみると、唐津窯の影響ではないだろうかということだった。
 「唐津窯の影響」。なるほど、ありえると思った。
 波多氏の唐津にはすでに陶器を焼く窯があった。そこで働いていたのは朝鮮人の陶工たちであった。玄界灘を縄張りとする松浦水軍は朝鮮半島とも自由に往来していた。そのため波多氏の下には朝鮮からの渡来人が多くいた。そして彼らこそが日本で働く朝鮮人陶工の初めだった。
 鍋島軍の龍造寺家久は、この波多氏に嫁した安子姫といとこ同士だった。だから波多氏が朝鮮陶工たちを保護し、陶器作りを奨励し、さらに窯を厳重に管理していることを、感心しながら聞いていた。いとこの安子は美人だった。だからか天下人秀吉は安子姫に夜伽ぎを命じたといわれている(加藤唐九郎『陶器大辞典』)。もちろん夫である親はこの無理難題を拒絶した。そのため波多氏は秀吉に改易された。これに伴い波多の朝鮮人の陶工たちも離散し、「岸岳崩れ」とまで言われた。私は、「岸岳崩れ」という言葉が伝わっているくらい、この出来事は肥前の人にとって忘れられない事件であったと考える。家久もその一人ではなかったか。家久は、領主の役割ということをこの事件から学んだのではないだろうか。そしてあの陶工たちの技を鍋島藩のために使えないかと思ったのだろうか、それとも船中にいる朝鮮人参平がその糸口になるとの予感をもっいたのか、家久は、参平を自領の多久(現:多久市)へ連れ帰った。

 その後、天下は「厭離穢土 欣求浄土」を旗印にしていた徳川家康が手中におさめた。当初家康は鍋島藩を秀吉方と見ていた。そのため筑後の柳川藩を討てば徳川側として認めるとの難題を突き付けてきた。隣接している柳川は佐賀も同然である。私の佐賀高校時代でも、福岡県の柳川から通っている生徒がいたくらいである。
 鍋島直茂(藩祖)とその嫡子勝茂(初代藩主)は、藩のため、家臣のためとやむなく兵を挙げたが、鍋島の兵も同士討ち同然の戦を涙ながらに戦った、との黒髪氏の小説の誠実ある描写に、私も然りだと思う。                                                                          
                                                          (続く)

江戸ソバリエ協会 理事長
ほし☆ひかる

《参考》
柳田国男『木綿以前の事』
黒髪酒呑童『陶工李参平公の生涯 日本磁器発祥』
石川和男「西肥前陶磁器と商人活動-伊万里津における商業活動を中心として-」
(専修大学社会科学研究所月報2020年89月合併号)