第874話 白磁光明物語 蕎麦猪口編、二 

      2024/01/10  

二、有田の中野一族のこと

  まず肥前国の地図をご覧いただきたい。
 江戸時代の鍋島藩は有明海沿岸が領地であり、本藩と、三支藩(蓮池藩=現:佐賀市蓮池、小城藩=現:小城市、鹿島藩=現:鹿島市)と、幾つかの自治領(村田、白石、田久保、久保田、多久、須古、川久保、諫早、神代、深堀)からなっていた。加えて幕府領長崎は、佐賀鍋島藩と福岡黒田藩が交代で管理していた。
  また自治領とは、たとえば多久は鎌倉御家人多久氏の領地であったが、龍造寺隆信に攻められ没落し、多久領に亡き龍造寺隆信の末弟長信の嫡男龍造寺六郎次郎家久が入った。が、あくまで鍋島直茂の重臣であった。
 ただ、この家久は1608年に龍造寺姓を捨てて多久長門守安順と改姓した。おそらく家久は、九州の龍造寺も島津も、中央の織田信長や徳川家康に比べると格がちがうことを感じていたと思われる。なぜなら信長は「天下布武」を旗印にしていた。伯父隆信も気持的には同じだったかもしれないが、信長はその理念が明確であった。そのためか現代知識人の信長の評価は高い。とくに辻邦生が『安土往還記』で描く信長の姿は、鋭い刃物でありながら芸術品でもある日本刀のように美しい。また若いころから「厭離穢土 欣求浄土」を旗印にしていた家康も然りである。「人の世に 罪があるから 浄土がある」と説く僧もいるが、それを家康は知っていたのだろう。ともあれ、家久(安順)の改姓は、徳川天下の中で鍋島の秩序を守り、ひいては鍋島をして佐賀藩を発展させるという彼なりの決意であったかと思われる。
 さて、徳川家康が江戸開府(1603年)をしてまもないころ、多久安順の保護下で陶器を製作していた参平は、どういうきっかけだったかは不明であるが、1605年ごろ有田の泉山に良質の磁石鉱を発見したといわれている。見知らぬ異国の地での探索は、参平一人ではできない。龍竜造寺家久、中野清明の保護、そして他の朝鮮人たちの情報、協力なしでは結果が出ないことは明らかである。
 磁石を発見した参平は、これまでの土と新しい白物(白磁石)の違いを黒髪小説の中でこう述べている。
 これまでの焼き物は山から掘ってきた土を水甕に入れて泥水にし、これを竹笊で何度も漉し、陶土にして使う。
 白物は白く堅い石をまず粉砕して水甕に入れ、粘りがでた白い泥を竹笊濾し、白い陶土にして使う。
 さらに参平は、白磁鉱を発見した天狗谷は、必要なも十分補給できる環境だと付け加えた。
 これより以降、有田の磁器は材料、焼成法など陶器より難しいから、高級品として大事に扱われていくことになるのはご承知の通りである。
 そして1614年、安順はもっとも信頼する家臣中野神右衛門清明を伊万里代官西目一通り心遣い役(直茂の代わりに伊万里郷・有田郷・山代郷の西目三郷を治める役職)に就かせることにした。清明は、松浦町下分地区に館を建てた。伊万里はかつて松浦党伊万里氏の領地であったが、今は鍋島領である。また中野氏は現在の武雄市朝日町中野を本貫とし、武雄塚崎の地頭後藤氏の一族であった。家久は先を読んで、伊万里津を押さえたのだろうか。なお後年、伊万里津が伊万里焼の荷出しで賑わうようになったが、教育を重んじた鍋島藩は津に遊里を置くことを認めなかった。これも管理者の清明の信条であったと思うが、これについてはまた後で触れる。
 こうして、参平が製作した磁器が中野清明→多久安順から藩主直茂公に献上された。これが有田焼の創業の年とされているが、1616年のことではないだろうか。
 以上を見るように、多久では慌ただしい動きがあったが、全て参平の磁石発見に発することと私は推定している。
 1603年、江戸開府
 1605年、参平、磁石発見
 1608年、龍造寺家久、多久氏へ改姓
 1614年、中野清明、伊万里代官に 
 1616年、多久氏、鍋島直茂公へ「磁器献上
 多久安順は、参平の功績を称え、出身地から名をとって「金ヶ江三兵衛」と名のらせた。
 そして、1620年に中野清明が、1641年に多久安順が亡くなるが、多久二代目は茂辰が継ぎ、1647年清明の次男山本神右衛門重澄が初代皿山代官として、伊万里有田地方の管理役に就いた。
 中野重澄が山本姓に変わったのは、山本助兵衛宗春の養子となったためだが、その養子縁組の間をとったのが多久安順茂辰父子であった。多久安順の「有田磁器」への思いは、多久茂辰、山本重澄へと引き継がれていたのである。
 こうして、多久、山本に保護された金ケ江三兵衛(参平)は、有田天狗谷窯に窯を築き現在に近い窯業体制を確立させていく。
 また有田陶磁史としては、金ケ江兵衛の他に、家永正右衛門、高原五郎七、百婆仙などの多くの名が伝えられている。しかし三兵衛は多久家お抱えの陶工だから史料に記録されているが、他の陶工たちの足跡は明確でない。
 そのなかの百婆仙(朴貞玉)というのは、武雄領の朝鮮人陶工辛島十兵衛(張成徹)の未亡人であった。百婆仙は夫亡き後に朝鮮人陶工約100人を引き連れて、有田へ入って来たと記録されている。
 武雄領は先の地図で見たように自治領である。だから百婆仙一団が武雄を出て、鍋島領へ行くことを武雄藩が簡単に許したのだろうかと疑問をもつが、おそらく武雄出身の中野一族が手を打ってくれたのだろう。
 ところで、この百婆仙については村田喜代子の小説『龍秘御天歌』が面白い。
 百婆仙は「故国を離れて暮らすことは仮面をかぶって生きること」と言っているが、この〝仮面〟が小説の主題である。
 百婆仙は、死ぬときぐらいその仮面を外してやりたいということから、夫の葬儀は朝鮮式でやると宣言する。一言でいえば、「哭踊」といわれる、激しく哭き、叫ぶ、あの様である。だが息子は、反対して日本式の仏教葬式を決行する。母の気持を十二分感知しながらも、これからは日本人として生きていかなければならない息子の苦悩があることが描かれてある。
 ところで『龍秘御天歌』の中にはソバリエとして見逃せない箇所がある。
 「・・・蕎麦湯を配り終えたところだった。これを飲んで酒気を覚まして夜道を帰ってもらうのだ。」
 これは小説家村田喜代子の創作だろうか、それとも調べた上でのことだろうか。もし後者だとしたら昔の朝鮮人にも蕎麦湯を飲む慣習があったということになるから、非常に気になる一文である。
 さて、百婆仙は「秀吉の欲した茶碗が、こんな茶の湯の侘びなどとは真反対の陶工の手で作られたとは皮肉な話だ」などと痛烈な言葉を吐いているが、それでも、参兵衛ら朝鮮人陶工はむろんのこと、この初代皿山代官山本神右衛門重澄らによって、肥前窯業の基礎は築かれて、さらなる発展をつげるのである。

 なお、この重澄の子は『葉隠』の口述者として有名な山本神右衛門常朝である。先に中野清明は伊万里津に遊里を置かなかったと述べたが、そうした精神は孫の山本常朝にも伝わり『葉隠』となったのかもしれない。
 あの有名な言葉「武士道とは死ぬことと見つけたり」は鍋島磁器と関係するのだろうか。
                                 (続く)

江戸ソバリエ協会 理事長
ほし☆ひかる

 

《参考》

辻邦生『安土往還記』

村田喜代子の小説『龍秘御天歌』