第929話 オトコの最期

      2025/02/14  

★昨年の暮だった。
 盟友の小林照男さんからパスタ製品のセットが送られてきた。
 品物がパスタである理由はすぐに解かった。彼が信頼する婿殿の会社の製品だからである。 
 婿殿のお名前は副島さんとおっしゃって、その会社の社長をされている。
 副島さん・・・と聞いて、あっ!佐賀出身の人だなとピンときた。なぜかというと、故郷佐賀には、近所あるいは少年のころのクラスには必ず副島さんが一人か二人はいた。そんな名前だから私も婿殿に勝手に親近感をもっていた。なにしろ小林さんという人は、会えば必ず愛する奥さんと愛娘さんの話をする人だったから、とうぜん婿殿も信頼されているのであった。それが目の前のパスタにも表われていると感じた。
 しかし、パスタの理由は分かっても、こんなお歳暮のようなことは初めてだった。何か胸騒ぎがした。すぐに銀座へ行って、お返しにベルギー・チョコを送って、彼に電話した。「何?これ!」と。
 すると、医者から寿命を言い渡された。もうほしさんには会えないかもしれない。ほしさんが創ったソバリエのお蔭で楽しい20年だった・・・。という彼の声が電話から流れてきた。
 私は、返事ができなかった。やっと「何を言ってるの」と言うのが精一杯だった。最後に、チョコを送った旨だけ伝えると、「明日は娘が来るから一緒に頂くよ」と言った。
 それから小林さんは入院した。千葉ソバリエの皆さんたちからお見舞いに行ってきたとの連絡があった。私も、2月5日のある企画物が終わったら、小林さん会いに行こうと思っていた。
 ところが、1月27日、ソバリエの島崎さんからメールが入った。
 「小林さんが昨日の昼にご逝去されました。」
 今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん
 これは大田南畝の狂歌である。意味は狂歌の言葉通りであるが、さらにいえば、一般論として、人が死ぬことはわかっているが、まさか自分や親しい人たちが今日・明日に死ぬとは思ってないということにあると思う。だから、私も小林さんがほんとうに亡くなるとは思っていなかった。
 であるのに、彼は「ほしさんともう会えないかもしれない」と私に告げた。彼は明らかに自分の死を悟っていたのである。
 小林さんは、千葉ソバリエの会寺方蕎麦研究会を創設し、またラダック蕎麦文化の旅を4回果たして様々な蕎麦情報をもたらし、さらには幻の蕎麦《鰯切り》さえも復元してくれた。
 まぎれもなく、江戸ソバリエ・ソサイアティを創り上げた人の一人であった。

 寺方蕎麦研究会では、小島末男さん、小林尚人さん、髙橋孝夫さん他の皆様のご尽力でお花を届けていただき、ご冥福をお祈りした。

★ある日のこと、私は新潟にいた。
 親友の板垣さんが運転する車中だった。電話がかかってきた。
 「伊嶋みのるの弟ですが、兄が亡くなりました。お電話を差し上げてのは、兄の枕の下にソバリエはほしさんに連絡すればいいとあって電話番号が書いてありました。ただ葬儀が一切終わった後でいいとありましたが、電話してしまいました」ということだった。
 私は、助手席でしばらく沈黙していた。もしかしたら涙が少し滲んでいたかもしれなかった。運転していた板垣さんが、「どうした?」と言った。私は言葉少なに電話の内容を話し、再び黙り込んだ。板垣さんは余計なことを言わずに、私の沈黙に付き合ってくれた。
 私は伊嶋さんが入院したことは聞いていた。しかしまさか亡くなるとまでは思っていなかった。
 それなのに伊嶋さんは、自分の死を確実に認識し、後は頼むと私の電話番号を書いたのである。
 彼は、古民家蕎麦を愛す会を創設し、墨線画家として活躍していたことは皆さんもご承知のことである。
 彼もまた、まぎれもなく江戸ソバリエ・ソサイアティを創り上げた人の一人であった。

 帰京した私は、伊嶋さんの葬儀に参列し、別れを告げた。
       
 自分の死を知っていたオトコ二人の行為。案ずるに、彼らの人格は私より数段上だった。それを想うと、私に同じことができるだろうかと情けなくなった。
 ただ、いまの私にできることは、そうした彼らの最期の様を書き記しておくことだろうと思って、ここに一言記した次第である。

合掌 江戸ソバリエ・ほし★ひかる