第931話 2回の救急車騒動から
2025/02/27
☆1回目
夕方7時ごろだった。
その狭い歩道には電信柱が立ち、店の看板も置かれている。そのうえに駐車場のある所は歩道が車道に向かって斜めになっているから、自動車にはやさしく、車椅子の人には酷な歩道だった。ただ段差をつけて歩道としているのは、いい方で、白線を引いたたけで歩道としているのが、ほとんどだ。だから、誰かが言っていた。「現代日本には車道はあっても、歩道はない」と。
そんな歩道の100m先に都電の踏切があった。
そこへ手押車を押した老人が向こう側の歩道へ渡ろうとして、倒れた。すぐ後を歩いていた女性が走り寄った。私も駆け寄って助けようとしたら、先の女性が「頭を打って血が流れているから動かさないで」と言いながら、携帯で救急車を依頼した。当然、事故の場所を訊かれた。「ここは・・・?」と女性が戸惑った。私は急いで電信柱や、近く家の番地表示を見て回ったが、どこにも表示がなかった。個人情報保護の行き過ぎからか、近ごろの家屋は番地表示や表札を出さないところが多くなった。現代日本の悪い傾向だった。ただ嫌らしいことに、ローマ字で記した表札は出しているから、ここは日本だろうかと皮肉に思うことがある。
それはともかく、女の人は都電の踏切の前だとか、大きなビルや店の名前を言って場所を説明している。私はハッと思ってスマホで位置を情報を出したが、遅かった。大きなビルの説明で通じたようである。遅かったと反省するよりも、月次と車が通るので、私は交通整理をした。そこへ別の女性が通りかかって、倒れた人を覗き込み、「反応は?」と訊いた。すると先の女性が「反応も、意識もあります」と即答した。このやりとりに、舌を巻いた私は尋ねた。「貴女たちは医療関係者ですか?」、すると、先の女性と、後の女性が言った。「看護師です」。「医者です」。
こんなことってあるだろうか、たまた通りかかった、しかも別々の人が、看護師と医者とは・・・。
やがて、救急車が来ると、二人の女性は状態を手短に伝え、「名乗るほどの者ではございません」という風に立ち去った。私はお二人の後姿がカッコいいと思った。それに対し、日本の、歩道や住所表示の現状に関しては、社会から〝公共性〟が失われていると残念に思った。
☆2回目
救急車騒動の翌々日だった。
夕方6時に、ある所で、ある人とお会いした。その人は私と会うなり、お腹を抱えて坐り込み、「痛い、痛い」の言葉を吐き続けた。
「大丈夫?」私は声をかけた。たいていの人は大丈夫じゃなくても、苦しさのなかで「大丈夫」と返事をするものだが、「痛い、痛い」を繰り返し、{病院へ行きたい、タクシー・・・」と続けた。
しかし診療時間外にタクシーで病院に駈け込んでも受け付けてくれないことが多い。そこで私は、「救急車をよぼう」と言って、電話した。
されど、待っていてもなかなか来ない。もう一度電話した。また「今、向かってます」の繰り返しの返事、そこで「何処から来ているの?」と訊いたところ「〇〇から」とのことだった。そんな遠くから、それじゃ遅いはず。なぜ最初からそう言ってくれない、言ってくれればこちらも焦ることなく、急病人にも言いようがあったのにと思った。
まもなく、救急車が到着した。私も同乗した。隊員は親切だった。大病院の受付も、看護師たちも、医師も、みなさん親切だった。
結果は、大腸炎で2~3日入院ということになった。ただ、これ以上のことは個人的なことだから、詳細を述べることは控えることにし、救急車騒動はここまでとして、話題を変えたい。
☆翌日、お見舞いに行った。
玄関にガードマンが立っていた。どこでも見られる姿である。
続いて受付・案内のカウンターがあって、白衣を着た女性が3名、カードマン1名がいた。
私は女性スタッフの方に面会を申し込んだ。ところが、その女性は「受付は、そちらの男性担当者〈ガードマン〉に言ってください」と言う。心なしかその言葉には拒絶感があった。そうした雰囲気のせいか、ガードマンさんの対応もぎこちなかった。
われわれからすれば、この制服はガードマンであって、病院職員とはとても思えない。だからだろう、何人かの見舞客も私と同じことをした。なのに手の空いた女子職員たちは楽しそうにおしゃべりしていた。世間でよく言われている「人手不足」とはとても思えないのに、何のためのガードマンが受付役だろうと不思議であった。
そういえば、最近は駅のホームも、図書館にも、制服姿のガードマンが目につくようになった。彼らは物事を尋ねてもあまりご存知ない。何のために雇用されているのかと疑問をもつことがあるが、おそらく、〝効率化〟のために人員削除し、下請けに出したのだろう。一種の分業である。
とにもかくにも、彼らには違和感がある。何が違和感かというと、それはガードマンの制服である。
病院の、駅員の、図書館員の制服でなく、ガードマン会社の制服に、医療関係、交通関係、書物関係の信頼感はもてない。そこが問題であると思う。
客の信頼を得られない分業策は見直さなければならない。
幸い、それに気づいた所はガードマンの姿が消えて、本来の職員に戻った所もある。
確かに、過去の経済社会では、分業が効率的だという考え方があった。
江戸時代の商業は分業で発展した。
しかしこれからは問題があるといわれている。
分業というのは、線引きから始まる。線引きしてしまうと線のこちら側と向こう側は、互いに無関係、無関心に陥り、コミュニケーションが絶縁する。結果、信頼が損なわれ、激しいときは対立を招き、争いとなる。同時に、内部でも掟に縛られることも出てくる。
この線引きというのは分かりやすく、やりやすいから、だれでも嵌ることである。
一個人なら、かわいいもので、それに早く気づいて、線引きという型を越えれば、さらに人間が大きくなることもある。
しかしながら、一国の首長がそれをやると国民が犠牲になる。だからやってはいけない首長の罪だと思う。
やはりこれからは、昔の賢人が言うように、線引きより、むしろ依存度を高めることである。分かりやすくいえば、「頼れ」ということかもしれない。
受付での違和感から、病院とは関係のない妄想を数分間描いてしまったが、いかがだろうか。
追記:入院した知人は2泊して無事退院した。何よりだった。
写真:玩具の救急車(ネットから拝借)
エッセイスト
ほし☆ひかる