第279話 福徳稲荷あれこれ

     

お狐様

「牛」から角を外すと「午」になる。だから、牛のようにノッタリした農耕用のウマには「午」の字が似合う。もうひとつの「馬」は「鳥」に似ているから、飛ぶように速い競争用のウマには「馬」の字が合う。というようなことを述べていたのは、詩人の吉野弘だ。
詩人は漢字を見ているといろいろと想像するのだろう。それだから、漢字は読むものではなく、見るものだともいう。

そういえば、漢字の「蕎麦」が読めないから、ひらがなで「そば」と書いてほしいとよくいわれるが、むりに読まなくても見る字だと思えばいい。
だけれども、ローマ字変換をするワープロが普及して以来、ローマ字という日本語ではない字を使うようになってから、字はみんな読める字でなければならないように錯覚してしまっているが、世界には、漢字のように見る字と、英語のように読む字があるということを忘れてはならないだろう。

☆福徳村
話を戻すと、午といえば稲荷神社例祭は午の日と決まっている。
日本橋の一等地に坐す福徳稲荷でも例祭を行うというので隅の方に参列させてもらった。「江戸蕎麦は日本橋から始まった」と力説している小生としては「ぜひに」というわけだ。
この福徳稲荷神社の創建は相当古い。遅くとも平安時代の貞観年間(859~876)には当時、「福徳村」(武蔵国豊島郡)といっていた当地に稲荷社として祀られていた、と『縁起』にはある。
それにしても「福+徳」とはなんて縁起のいい名前だろうと思っていると、現代の「日本橋室町」は江戸時代には「瀬戸物町」「伊勢町」といっていた。それ以前は「福徳村」と呼ばれていたので、その村に坐す稲荷社だから「福徳稲荷」なんだそうだ。

じゃあ、何んでそんな縁起のいい村名が付いただろうかというと、それについては古代史で気になる人物がいる。
背奈福信という男だ。祖父は背奈福徳。ここで「福徳」という名が出てくるが、一族は教科書にも出てくる有名な広開土王の後裔で、福徳の父は高句麗の27代栄留王だったらしい。しかしある時期、朝鮮半島は唐と組んだ新羅が台頭し、660年に百済が滅亡、668年には高句麗も滅亡、百済人や高句麗人の一部は日本に帰化し、高句麗人たちは駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の7ケ国に住んだという。その中に背奈福徳の顔もあったのだろう。
やがて孫の背奈福信は叔父の背奈行文と共に都へ上り、福信は役人として出世し、行文は歌人となった。
その間、武蔵国には高麗郡(日高市・飯能市)が新設され(716年5月)、7ケ国にいた高麗人1795人は高麗郡に移住させられた、と『続日本紀』に記録してある。
一方の、福信は756年に武蔵国21郡のトップ「武蔵守」となり、770年に再任され、783年には三度武蔵守に任じられている。
その最初の武蔵守の就任時には、こんな逸話が残っている。741年に国分寺建立の詔が出ているというのに、武蔵国分寺は遅々とし工事が進んでいなかった。そこで福信が武蔵守に就くやたちまち完成したというのである。それは武蔵国における渡来一族の実力、つまり結束力、技術力、資金力が抜群であったことを物語っているのであろう。今の都知事とオリンピック工事のようなことを想像すれば、イメージがわくだろう。また、武蔵守福信は758年に武蔵国に新羅郡(新座市)も置いている。さらには733~764年ごろ渡来人福満の子の満功上人が深大寺を創建しているのも何らかの関係があるのだろうか。
いずれにしろ、かくて武蔵守福信時代の武蔵国は大いに発展した。
高句麗渡来一族といえば、高来(高麗)神社も祀ってある相模湾の奥にある大磯が東国開発の根拠地だったといわれている。もし、この時代を想像できる歴史作家がいるとしたら、それと同様に武蔵国の湾の奥にある村にやって来た者たちは稲荷神を祀って村名を長の名の「福徳」とし、武蔵開発の足掛かりとした、というような物語を描いてもおかしくないだろう。

☆稲荷神
その稲荷神は元々秦氏の祀る祭神であった。この秦氏は漢より前の時代には中国大陸にいたらしい。後に朝鮮半島に移住して、さらには4世紀ごろ日本列島に渡来してきた。まずは北九州に上陸し、そこから全国へ散っていったが、中心人物は山城国深草里に居を構えていた。
それが和銅4年(711年)2月11日の午の日に稲荷神が顕れ坐したと宣言し、社(伏見稲荷大社)を創建したという。
今では、稲荷の神獣である狐の伝説は日本でも広く分布しているが、もともとは中国の民が狐を田の神の前触れとして見ていた風俗からきているのだろう。といったら頼りない説のように思われるかもしれないが、神獣で一番多い狛犬のルーツはエジプトの王墓の周りをうろついていた野良犬だというから驚くことはない。
2月11日は正確にいうと「卯月戊午の日=う づき、つちのえ・うま のひ」になるという。この土の兄(つちのえ)が陰陽五行説によると農耕のイメージでありお狐様が登場する理屈につながっている。実はこれが一番大事であるけれど、「陰陽五行」なんて訳の分からない世界に深入りするのはよそう。ただ、春を予感させる2月のころにお狐様が顕れたとだけ思えばいい。
そんなことで、「福徳」と「稲荷」と「午の日」が何となくつながったが、コレド室町という現代的な街並の中で往古千年の光景を妄想するのも一興だろう。

☆いなり寿司
帰りには、例の通り《いなり寿司》を頂戴したが、そうだった。世間では《いなり寿司》も「稲荷」と「午の日」と1セットだった。
このいなり寿司の習俗は日本生まれである。
いなり寿司そのものは江戸後期の天保年間(1830~44)に尾張名古屋の某という男が考案し、末期の嘉永年間(1848~54)に江戸両国に伝わってきたという。明治元年が1868年だから、千年の話からすればつい最近だ。
ところで、1827年ごろの川柳にこんなのがある。
澤蔵司 天麩羅蕎麦が 御意に入り
小石川に澤蔵司という僧がいて、天麩羅蕎麦が好物だったらしいが、実はその僧はお狐様だったということで、今では澤蔵司稲荷と呼ばれている。
かように、「なぜ、お狐様は天麩羅油揚が好物なのか」をいう前に、寺社では精進として動物の肉は禁じられていたので、代わりに肉以外の物を植物油で揚げて食べていたというのが背景にある。つまり江戸初期に中国から伝わった「普茶料理」である。

その上で、狐色の油揚を使った寿司が登場したので、狐のお稲荷さまと結びついたのだろう。
そういえば、昔の《いなり寿司》は腹を干瓢で巻いてあったように記憶しているが、いつのころからか省略されてきしまっている。
蕎麦界では《蕎麦いなり》なんていうのもある。油揚を砂糖、辛汁、甘汁で炊いておく。一方、硬めに茹でた蕎麦切を食酢と辛汁に3分ほど浸して汁を切り、先の油揚に詰める。
美味しさの訴求力という点では甘い物が一番強いが、油物の美味しさというのも結構魅力のあるものである。

参考:筑後則『福徳稲荷縁起考』(福徳神社)、『深大寺』(深大寺)、金達寿『日本の中の朝鮮文化 Ⅰ』(講談社)、吉野弘子『狐』(法政大学出版局)、

〔江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる