第290話 渋い小説「茶の本」

     

【茶雨庵 ☆ ほし 絵】

年月日:1869年(明治二年)1月2日
舞台:佐嘉鍋島家神野別邸「茶雨庵」(1846年建立)
登場人物:鍋島直正公(1815~71) 53歳
グイド・フルベッキ(1830~1998) 38歳
大隈八太郎、(後の重信:1838~1922) 30歳
久米丈一郎、(後の邦武:1839~1931) 29歳
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~ 茶雨庵茶会篇 ~

1869年(明治二年)1月2日のことです。北風の吹く寒い日でした。
現在、私は長崎で英語などを教えていますが、かつては生徒であり、今は仲間である大隈八太郎さんの案内で、佐嘉城下町の郊外にある鍋島直正公の別邸を訪ねました。
馬に乗った私たちは多布施川という水の流れが美しい川の土手を上って行きました。向岸の土手には燕尾服を着たような鳥がチョン・チョン・チョンと跳んでいます。「あの鳥は何ですか?」と私は大隈さんに声をかけました。
「あれは、カチガラスです。」
「カチガラス? 烏ですか?」
「そうです。珍しいでしょう。」
途中の楠の巨木には小さな雀たちが無数に集まっています。
やがて、着いた所は広い庭園と大きな池のある所でした。そして、手前と池の向こうに寄棟造の質素な民家があります。手前の家はやや大きく、向こうの家は小さな茅葺の家でした。ここが鍋島家の神野の別邸でした。大きい方の民家が「無限青山亭」、小さい方が「茶雨庵」と呼ばれているそうです。
大隈さんが入口の柿の木の所で馬から下りて、池の向こうの「茶雨庵」を指して、言いました。「大殿がお待ちです。」
「あそこで・・・!」私は驚きました。
それは農民の住まいのように粗末な家だったのです。しかもどこか不均衡な形をしています。
「これが、日本でも一、二の國主といわれる鍋島家の大殿の別邸とは」と内心舌を巻きました。
入口では一人の若い男が待っていました。彼は私に頭を下げ、私と大隈さんの馬の手綱を取りながら「大殿が釣殿で、お待ちかねでございます」と言いました。
「釣殿」というのは「茶雨庵」のことのようです。
大隈さんが、その人の肩を軽く叩きながら言いました。「先生、これは久米丈一郎、私の一番の友です。」
「こんにちは。私はグイド・フルベッキです。」
大隈さんも背は高いのですが、久米さんも高い方でした。
「お初にお目にかかります。久米丈一郎と申します。お噂は大隈さんからうかがっています。」
私は彼に手を差し伸べました。
彼は一瞬だけ躊躇していたようですが、すぐに私と握手をしました。
これが私と久米さんとの出会いでしたが、後に彼が私の〝思い〟を見事に形にしてくれようとは、このときは知るよしもありませんでした。
話をすすめる前に、断っておきます。先ほど「英語の先生」と申しましたが、私は本当はアメリカのオランダ改革派教会から派遣された宣教師です。私が初めて長崎湾に入ったのは、忘れもしません1859年の11月7日の夜でした。翌日上陸しますと、先に来ていたアメリカ聖公会のプロテスタント宣教師ジョン・リギンスチャニング・ウィリアムズらが迎えてくれました。
異国の地で仲間に会った私は、どんなに心強かったことか。
二人は、鍛冶町という所にあるお寺崇福寺(黄檗宗)へ案内してくれましたが、その寺が私の住まいだったのです。先ずは一安心というところです。
しかし、長崎は今もキリシタン禁制の高札が掲げられております。表立っての布教活動が難しいので、やむなく宣教師たちは私塾で英語を教えて生計を立てていました。
私も、自宅で聖書を読みながら英語を教えることから始めました。生徒は幕府方の何礼之さん瓜生寅さんたち、あるいは開明派の人たち、たとえば佐嘉の英学研究生の中牟田倉之助さん石丸虎五郎さん本野周蔵さんたちでした。
私に声がかかった理由は、私がオランダ人だったからです。日本は長い間オランダとの通商だけは認めていましたから、幕府や他の人たちは西洋人の中で一番安心だったのです。私は22歳でアメリカに渡って宣教師になり、29歳で日本へやって来ました。ですから、ヨーロッパにもアメリカにも通じているオランダ人として、日本人は私を温かく接してくれたのです。
私は幕府から依頼されて1864年(元治元年)から江戸町にある英語伝習所(安政五年設立)の正式な教師になりました。幕府は英語教育に力を入れていました。その伝習所は1865年(慶応元年)8月に新町で新築され、「済美館」と改称しました。
暫くして私は西小島の大徳寺(現:梅香崎神社)に住むようになりましたが、そこに大隈さんが訪ねてこられました。彼が言うには、佐嘉もまた独自の英語学校の設立構想をもっているというのです。
大隈さんは新見正興正使らとポーハタン号に乗ってアメリカ渡航した、彼の友人の小出千之助さんから話を聞いて、これからはオランダ語ではなく英語が世界語になるだろうとの考えに至ったというのです。
私はヨーロッパに生まれ、そしてアメリカへ、さらに今は日本に来たように、世界を知っていますから、世界語の意味が分かるのですが、極東の日本に居ながら、世界語の必要性を知るとは ― と、私は大隈さんに大いに興味をもちました。
そのころ私は、聖書に大変関心をもっていた鍋島家の家老村田若狭守政矩さんの部下の人たちと交流をもっていました。村田さんは大変賢明な人物で、西洋文明を理解するためにはキリスト教を学ばなければならないと考えていたのです。私のように、日本にやって来た欧米人には、それがベストの方法だということがよく分かります。日本の文化を理解するには、日本の仏教を知らなければなりません。
その若狭さんから「私のことを聞いた」と言って大隈さんは、面会を申し込んできたのです。
それから私と大隈さんの付合が始まりました。先ずは英語です。私は、長崎で生徒の皆さんに『新約聖書』や『アメリカ憲法』を原文のまま読ませますが、大隈さんはいとも簡単にそれをマスターしました。だから私は、大隈さんのことを「天才」と讃えましたところ、「いえ。私など大殿には及びません。ぜひ会ってほしい」ということになって、1865年6月15日(慶応元年五月二十二日)に初めて長崎のグラヴァー亭で鍋島の大殿とお会いしました。
鍋島直正公は洋学を奨励し、大砲鋳造のための反射炉建設、あるいは日本初の蒸気機関車製造、日本初の蒸気船「凌風丸」を早津江川にある三重津海軍所で進水させる一方、西洋医学を導入し、幼少の息子つまり現在の殿鍋島直大公に種痘を試した英明な君主として外国人の仲間でも一目おかれていました。当然、大殿は英語の必要性を理解されておりました。そんな大殿ですから、私を高く買ってくれました。
それから、その年の10月に私は初めて佐嘉を訪れました。長崎から佐嘉へは汽船で1日かかります。城下町では鍋島家の学校「弘道館」を視察しました。そのとき大隈さんの「英語の学校をつくろう」という強い意志が私に強く伝わり、大殿もまたそれを認めてくれていました。そのときは他に有田の陶器、伊万里港などを見学し、武雄・嬉野の温泉にも行きました。二か所ともに素晴らしい温泉でした。私は「ここを世界のリゾート地にすべきだ」と、案内してくれた佐嘉の役人に提案しましたが、まだ外国人客の観光という認識は日本人には早すぎたようで、彼らは「外国人に来られては迷惑」とまでいわなくとも、何ともいえない複雑な表情をしていました。
とにかく、その日から大隈さんは奔走し、佐嘉の商人から寄付金を集め始めました。そして先ず1868年(慶応四年)1月に五島町にあります鍋島家親類同格の諫早家屋敷内に「蕃学稽古所」を開校させました。そのとき大隈さんは、自分は舎長助となり、舎長には他人受けする副島次郎(種臣)さんをに就いてもらいました。ちなみに、「親類同格」というのは身分の一つだそうです。鍋島家というのは「本家」と、蓮池・小城・鹿島の「御三家」と、「親類」と、「親類同格」から成っています。家老の村田さんは「親類」、諫早さんは「親類同格」というわけです。この稽古所は10月に「致遠館」と改称し、正式な学校になりました。

話を戻しましょう。私と大隈さんは木でできたアーチ型の橋を渡りました。先ほどは家が向岸にあるように見えましたが、家は池の中島にあります。だから「釣殿」とも呼ばれているのです。これは長崎の「出島」と同じ方法だなと思いました。
橋を渡って玄関を入りますと、上り口に大きな石が置いてありました。日本の建物は木でできていますが、たいていの家にはこういう形のいい石があります。
大隈さんが「お先に」と手で合図しますので、私は上り口に腰を掛けて靴を脱ぎました。玄関の間の柱には十本ぐらいの白水仙が活けてありました。すぐ隣が六畳間です。
そこに大殿は床の間を背にして座っておられました。背後には掛物と花が飾ってあります。
「大殿、遅くなりました」と大隈さんが大きな身体で平伏しましたので、私も頭を低く下げながら言いました。
「お久しぶりです。」
「待っておった。座ってくれ、座ってくれ」と大殿は深く肯きながらおっしゃいました。大隈さんも日本人にしては大きい方ですが、大殿も大きな身体、そして大きな顔をされ、くわえて品格があります。実は、大殿の身体の具合が良くないと聞いていましたが、私の見るところ、顔色こそよくはありませんでしたが、大隈さんから聞いた状態より良いように見えました。私はオランダにいる父のことを思い出しました。だから、つい「直正さん」と口にしましたところ、大隈さんが困ったような顔をしましたので、「大殿様」と言い直しました。
そうでした。日本では、偉い人の名前は直接呼んではいけないのです。「住職、大殿、奉行、将軍、肥前守、若狭守」と役職で呼ぶのです。それから、日本では名前の下に《サマ》とか《サン》とか《ドノ=ドン》とか《チャン》とかを付けて呼びます。この《ドノ》と大殿の《トノ》とは似ていますが、違うようです。それから九州の人は《大隈ドン》と呼びますが、幕府の人は《大隈サン》と言います。ここが日本語の複雑なところです。私は、使い分けがよく判らないので、「大隈サン」と言っています。しかし大殿だけは、「直正サン」より「大殿様」の方がよいようです。もうひとつ私が分からないのは、いつ《サマ》を付けるのか、いつ付けないのかです。
大殿の近くに居るときは「大殿、いかがですか」と言うのに、離れているとき「大殿様にお会いしてくる」と言うのです。ただし、これは部下の人であって、私のような部下でない者は、いつでも「大殿様」と言うようですが、なかなか難しいです。
ところで、私は大殿の背後に飾ってある活け花に目を奪われました。それは古代中国の青銅器のような花器に枯れた枝がスッと立っていて、真ん中あたりに赤い大きな椿とそれに負けないほどの大きな枯葉が付いています。それが実に見事なのですが、世界のどこに枯れ枝や枯葉を飾る国があるでしょうか。しかしあらためて見つめてみますと、枯葉も実に美しいということを教えてくれます。「活け花」とはよくいったものだと、私は唸りながら目を移して、「大隈さん、掛物には何と書いてありますか?」と訊きました。
先天下之憂而憂 後天下之楽而楽、ですな。」
「どういう意味ですか?」
私が尋ねると、大隈さんが念を押すようにして言いました。「大殿の書でございます。僭越ながら、意味は先憂後楽、民に先だって憂え、民が幸せになった後に楽しむ、」
大殿の前にいる大隈さんはいつもの大隈さんとは様子がちがって畏まっているようです。
久米さんも同様です。先ほどから手の平で膝の上を軽く擦っていて、落着が感じられません。
私は少しでも空気が和めばと思って、「素晴らしい」と大殿の字と軸絵を称えました。
日本の部屋にはたいていこのような絵や字の掛物が飾られています。西洋でも額に入れた絵を掛けますが、字は飾りません。西洋の字は説明するためのモノですが、東洋の字は太く書いたり、細く書いたり、しっかり書いたり、流れるように書いたりして、音楽のように書き方で何かを表現しています。つまり造形性がありますから、絵のような技巧を必要とします。その技巧は心の修行から生まれるのだと寺の僧たちは言います。それを文字文化だというのです。私にとってそれは新鮮な出会いでした。
またそれらは季節によって、来客によって取り換えられます。その行為が歓迎の印だといいます。掛軸は巻物になっていますので、収納に便利なようです。
西洋人は歓迎の花束を直接相手に贈呈しますが、日本では迎える部屋に飾ります。共に鑑賞するためでしょうか。お客は飾られている軸や花で、迎える主人の思いや気持を読み取らなければなりません。これは謎解きゲームのようで、けっこうスリリングです。ですから、「先憂後楽」という言葉を飾った大殿の気持を読み取ってやるのも礼儀になるのです。
見回すと、部屋には他の生活道具は一切ありません。清々しいほどです。これが日本流なのです。質素ではなく簡素であるということでしょう。
私は座を立って、板の間の方に行きました。閑静のなかに水の匂いがします。ここは池の中ですから、建物の周りは水に囲まれています。もちろん西洋人も別荘を郊外などに建てます。しかし東洋人の建て方は極端です。山の頂とか、崖の淵とか、こうして水上とかに建てたりします。あるいは辺境でない場合は山海に見立てた庭を制作したりします。いずれもそれは死と背中合わせの自然の中に身を置く修行と関係があるようです。ですから、別邸は休養所であり、聖堂でもあるわけです。しかしながら、日本人は俗から離れているからといってこれを修行だとは言いません。彼らはそれを〝風流〟などと称して〝修行もどき〟を真面目に体験しているようです。
ところが、今日はそうしたこととは少し勝手がちがうようです。この家は、まるで四方を海に囲まれている日本のようではありませんか。「なるほど。ここは出島とは少し違うのだ」と私は納得しました。鍋島の大殿が、なぜ外国人の私を池の中に佇む家に招いたのかが、わかったような気がしたのです。それはおそらく風流を楽しんでいた日本に、突然外国人が乗り込んで来た。と大殿を言いたかったのでしょう。今日の私のようにです。痛烈な皮肉です。やはり大殿は一筋縄ではいかない人物のようです。
日本は、アメリ合衆国と似たようなシステムをとっています。各州が集合し、それを幕府がコントロールしていますが、中でも肥前、長州、薩摩、土佐は強國だそうです。それは國主のリーダーシップに因るのでしょうが、他のたくさんの人たちの話を総合すると、鍋島の大殿だけは飛び抜けて凄い方のようです。
日本では「石高」という生産高=経済力を示す数値があります。それによると佐嘉鍋島家は表向き36万石のところ実力90万石はあるといいます。36万石だけでも日本の中では大國ですが、それを遥かに上回るというのです。さらにはその経済力をもって佐嘉は「東アジアナンバー1」と噂されるほどの近代化=軍事力を備えているのです。それを成し遂げたのが大殿というわけです。
しかしながら、この風流な萱葺民家への招待には、もうひとつの皮肉があるのかもしれません。大隈さんによると、大殿は「国を閉じて風流を楽しんでいた日本人を西洋人は〝野蛮〟だと蔑んだが、殺戮用の銃や大砲を揃えたら〝文明国〟になったと高く評価した」とおっしゃって、大笑されたというのです。
それを聞いた私は、大殿は懐も視野も、非常に広大な方だと思いました。
とにかく私は、大殿から与えられた謎を先ず解いたのですが、だからといって、子供のように手を叩くわけにはいきません。第一、日本人はそのようなことはしません。すぐ態度に表わすことを控えます。理解しても知らぬ振り、分からなくても知ってるような素振り、チェスのように相手の手の内を読む ― 、ばかりではありません。むしろ日本では相手の心情を察知する優しさがなければなりません。
私は、大殿が仕掛けた手に、次の一手をどう打つべきかまだつかめていませんでした。
アドベンチャー精神をもって東洋までやって来た私が、日本国を憂慮する大殿に対して何ができるか。

「丈、膳を、」大殿が食事の用意を久米さんに命じました。
「は。」
久米丈一郎さんは大殿の近侍、つまり大殿の秘書官のような役だと聞いていました。久米さんの前任者は秀島藤之助という人で、「咸臨丸」でアメリカへ行った人だそうです。
久米さんが控えの間の人に指示をするとお膳が運ばれてきました。
「粗酒粗餐じゃが、さあ、」と大殿がすすめてくれます。
先ずは、鯛のお吸物です。
大殿がもう一度「温かうちに」と言いましたので、「頂戴します」と私は箸を取りました。美味しいスープでした。
大隈さんが「ああ、出汁がよく効いている」と呟きます。この言葉は美味しいスープを飲むとき、日本人はその言葉をよく使います。それに九州の人は鯛など白身の魚が好きだと聞いています。西洋人が肉の種類を吟味するように、日本人は赤身や白身の魚のことを話題にします。
「フルベッキ殿のお蔭で、致遠館も順調じゃ。」
「いえ。これも大隈さんや副島さんのお働きのお蔭です。」
この会話法は村田さんの弟さんから教えてもらったコツです。日本ではたとえ、「うまくいっているのも貴方のお蔭」と言われても、「そうだ」と言ってはいけない、「相手を立てろ」と教えてもらったのです。それから大隈さんからは「ただし、それは大殿には通じない」と言われていました。だから「大隈さんや副島さんのお蔭」と返事をしたのです。
こうしたコツをいち早く知ったお蔭で、他の宣教師たちよりも私は日本人に愛されました。これは宣教師としては必要なことです。
大隈さんと久米さんが、大殿と私の杯にお酒を注いでくれました。
大隈さんが「今日の御献立は大殿ご自身でお決めになられました」と言いましたので、私はあらためてお膳に目を移しました。
蒲鉾、赤貝の和物などがきました。そして舌平目と鰤の刺身は立体感のある盛付をしていて美しく、手を付けるのがもったいないような気がしました。
それからまた湯葉の入ったお吸物がきました。
日本ではスープは椀に入っていて、その椀を手に持って食します。西洋では食器を手に持ちません。「どうしてですか?」と前に住んでいた崇徳寺のお坊さんに訊きましたところ、「置いたままだと袖が食べ物に触れて汚れるではないか」との返答でした。「オー、たしかにそうですね」。日本の服は袖が長いのです。世界でも珍しいですね。納得した私は、妻にもそれを伝え、私たち夫婦も食器を手に持つようになりました。
日本に来てからの私の日常の食事は日本の料理ですが、住んでいた崇徳寺は中国系のお寺ですから、植物油を使った料理がありました。偶に鶏の丸蒸しや豚の角煮もあります。長崎では卓袱料理(中国料理)はどこででも食べられますし、またターフル料理(西洋料理)のレストランは、「先得楼」「迎陽亭」「吉田屋」「福屋」などがありますから、食べようと思えばいつでも可能です。
久米さんが何か言おうとしたのですが、伊勢海老煮、石鰈煮などが運ばれてきましたので、言葉を飲み込みました。
器をよく見ますと、オヤ《鶏の煮しめ》の入った器もあります。
そういえば、大隈さんは「日本人は山鳥や水鳥は食べるが、鶏は天の岩戸の前で鳴声をあげて大神を迎えて以来〝神鶏〟とされてから、食べない。ただし海外の窓口である長崎を治めている肥前鍋島家の武士たちは、今では鶏を盛んに食べている」と言っていましたが、やはりほんとうのようです。
たいへん柔らかくできていましたので、「これはどうやって料理したのですか?」と訊いたら、「酒で1時間ほど煮ます」と久米さんが教えてくれました。
私は、この鶏肉に日本の西洋化へのヒントがあるように思いました。
最後に細い麺が出てきました。素麺です。
「フルベッキ殿。佐嘉はいい小麦を産出しており、本当は麺大國なのじゃ。決して軍事國などではない。ハハハ」
たしかに長崎、佐嘉の人はよく麺を食べます。
「大殿様のお話には凄みがございます。」
「さようか。」大殿はすました顔しておっしゃいます。
食事の後の膳には、干柿、丸ぼうろ、かすていらが並びました。
それを大殿がすすめながら、訊いてきました。「フルベッキ殿は、なぜ日本にやって来たのじゃ?」
大殿は「アメリカのオランダ改革派教会から派遣されて・・・・・・」なんていう月並な答をお待ちのはずはありません。私は「adventure!」と英語で答えました。
大殿が身を乗り出されましたので、私はお話いたしました。「私はオランダのツァイスト町に生まれました。」
「丈、」と大殿が指示しますと、久米さんが隣の部屋から世界地図を持ってきました。
私は、オランダの箇所を指しながら、「父の名はカール、ドイツ系オランダ人で事業家。母の名はアンナ、元々はイタリア人で教育者です。父の一族は事業によってあるていど資産を有しています。私の家庭では、母国語のオランダ語の他、ドイツ語、英語、フランス語を話します」と言ったところ、皆さんは、驚いておられましたので、「ヨーロッパの言葉は似ていますから。皆さんも日本語の他に漢文も達者でしょう」と付け加えました。
「事業はアドベンチャーだと父はよく言っています。その父の精神、母の教育者の血筋、そして語学といった私の土壌の上に水が撒かれたのです。」
「水?」久米さんが私の目を覗きながら言いました。
「はい、水を撒くようなタイミングです。オランダで、モラヴィア派の教会・学校に通っていたときでした。モラヴィア派というのは外国伝道に熱心な団体ですので、中国で活躍したドイツ人宣教師カール・ギュツヲフの講演を聞き機会があったのです。それからです。私が東洋の世界に興味をもったのは、」
皆さんの顔を見ますと、「そうか」という顔をして頷いておられました。
「そんなところへ、アメリカのブルックリンにいた妹セルマの夫のG・V・Deurstに、来ないか! と誘われました。彼はモラヴィア派宣教師でした。渡りに舟とはこのことでしょう。私は居ても立ってもいられなくなって、アメリカへ渡ったのです。」
私はまた地図でブルックリンを指して、続けました。
「ところがです。アメリカに来て、働いているときにコレラに罹ってしまって、九死に一生という経験をしました。ベッドの中で私は、ここで死んでは詰まらないとつくづく思いました。そこでもう一度東洋への憧れたことを思い出し、頑張ったのです。そのせいか奇跡的に病が回復した私は、ニューヨークにあるオーバン神学校に通うことにしました。そこで改革派サンドビーチ教会のS・R・ブラウンの助手もつとめました。ブラウン師は中国人の宣教と教育のために9年間働いた人でした。そこでは、妻となるマリア・マンヨンや、M・キダーなど多くの仲間と知り合いました。みんな宣教の篤い志をもった人たちばかりでした。」
そんな思いをもって、オランダ改革派の日本派遣宣教師に願い出て、そして選ばれ、5月7日にサプライズ号で共に派遣されたブラウンと一緒にニューヨーク港から出航 → 喜望峰 → ジャワ島 → 香港 → 上海に着いたのが10月21日でした。」
久米さんが、地図で喜望峰・ジャワ島・香港・上海辺りを目で追っていました。
「あとは皆さまが、ご承知の通りでございます。」
「さようか」と大殿が短い言葉で私の話を肯定してくれました。
「まさにアドベンチャーですね。」久米さんが顔を紅潮させて感心してくれました。
「そう、確かにアドベンチャーですが、そればかりではありません。ギュツラヲフがオランダに来なかったら・・・、義弟がニューヨークに招いてくれなければ・・・、コレラに罹らなければ・・・、ブラウンと巡り会わなければ・・・、今とはまったく違うフルベッキになっていていたでしょう。そして日本に来てから、若狭さんや、大隈さんや、大殿にお会いしなければ、私はここにはいなかったかもしれません。」
このとき大殿がこうおっしゃいました。「八も、丈も、adventureしてこい。アメリカへ」
大隈さんも、久米さんも目を丸くしていました。

そして大殿が「フレベッキ殿、茶はどうじゃ」とおっしゃったので、「頂戴いたします」と私は言いました。
「そうか。」大殿は立って、隣の部屋に行かれます。私は「どうすればいいか」と大隈さんの顔を見ました。
すると、大隈さんも、久米さんも立ち上がりましたので、私も後に続きました。
そこは狭い部屋でしたが、さらに静けさが漂っています。
また活花がありました。それを見て驚きました。口の広いガラス器から枯れた蔓がこぼれていますが、その中に無名の白い花が投げ入れられたようにして飾ってありました。そのガラス器はまぎれもなく古代ローマのものです。まちがいありません。イタリア人の母が大事にしているガラス器と形こそ違いますが、そっくりだったのです。私はその古代ローマのガラス器に母の姿を感じて胸が締め付けられました。
壁を見ると、墨で○だけが描かれた軸が掛っています。滲んでしまった私の瞼に映るその字は何とも不思議に字に見えました。
鍋島の大殿は、私のことを知っていて、このガラス器に花を飾ったのでしょうか。それとも古代中国、古代ローマの青銅器やガラス器があるのは、先進国佐嘉としては当たり前のことなのでしょうか。
微かな炭の匂いがしてきます。
チンチンチンとお湯の沸く音が部屋を舞っています。
大殿自らが茶を点ててくれました。鍋島家は代々、山田宗徧の流れをくむ茶道を歩んでいると聞いていました。
シャ・シャ・シャ・シャ・・・・・・。茶筅が多布施川のせせらぎのような音を出しています。
頂いた茶碗は黒っぽくて渋い柿色をしています。その中に濃くて鮮やかな緑の液が入っていました。顔を近づけますと、それだけで緑の香りがします。それを口に含むと、その渋味の中のほの甘さを包み隠す味覚に、自分の身体が自然の山野の中に溶け込んでゆくような錯覚に陥りました。
ヨーロッパのお茶は、バラのような、蘭花のような香りがする、爽やかでちょっと澄ましたようなティーです。皆でおしゃべりをしながら楽しみます。
アメリカ人の飲むお茶は、甘く焦げたような、酸味のような、男っぽいコーヒーです。
私は茶を一口飲み、「ふう」と息を吐きました。オランダや、アメリカでこういう飲み方をしたことはありませんが、ゆったりとした気持がそうさせるのでしょうか。
ゆったりといえば、上海である老人に中国茶をすすめられたときもそうでした。その老人は庭にテーブルを出して、流れる雲を何時間も眺めながらゆったりとお茶を飲んでいました。しかし、中国ではそれだけですが、日本のお茶は渋さの中に何か哲学的で禅的な風味が感じられます。
「いかがかの、」
「美味しいお茶でございます。渋味につつまれた爽やかさと甘さが、素晴らしく美味しく感じます。」
「そうか。」
「〝渋さ〟は実に不思議な味覚です。私は日本に来るまで渋いことは不味いことだとしか思っていませんでした。」
「そうか。」
大隈さんや副島さんの話によりますと、日本の渋味は渋柿の味覚に代表されるというのです。
「渋柿は干すと甘くなる」ばかりか、「柿渋を塗った渋紙は水気を防止する」とか、「栗の渋皮は虫喰いを防ぐ」などと二人は私に面白いことも教えてくれました。
渋さを大切する日本人は、視覚的にも「柿色」を「渋い色」というようになり、さらに精神的に渋い色をした存在までも「渋い」というな表現をするようになったらしいのです。
私がこれまで聞いているところ、渋さは男の理想像だそうです。その渋い男の代表である大殿に、大隈さんたちが心服するようにです。
「お茶碗も、渋くて素晴らしいものです。」
大殿は静かに答えられました。「それは黒釉素麺手茶碗という。」
そんな大殿に私は温かみを感じました。
それからもう一度、私は気になるローマのガラス器の方へ視線を送りました。すると、見ているうちに、大殿を私の両親に紹介してみいと思い始めました。あなたの息子はこんな素晴らしい方とお付合いしているのですよ、と言うために。
このときです。
両親に会わせたいなどという個人的な思いを越えた、ある大きな企画が浮かんだのです。そうなんです。前に、イギリス人のアーネスト・サトウが「海外視察団を組むなら、その責任者は鍋島公をおいて他に適任者はいない」と言ったことを思い出したのです。
私は、お茶のお礼を言ってから、はっきりと進言しました。
「大殿様。先のポーハタン号は徳川幕府による日米修好通商条約のための渡米でした。」
「うむ。」
「日本は明治となり、新しい時代を迎えました。今度は、そのことを米欧に伝えるために、米欧への派遣団を検討すべきです。これは千年に一度の機会です。」
大殿の目が光りました。
「私がプランを立ててみます。」
「面白い!のう、八、丈。茶の心にadventureはあると思うか?」
「はあッ。」

私は、大殿との約束を自ら課すことにしました。そのことによって、今日の静かで刺激的な会食会 ― これが大隈さんたちの言うところの〝渋い〟会食会だろう ― を有意義なものにしたかったのです。大殿にとりましても、大隈さんや久米さんにとりましても、そして何よりこの私にとりましても。
そう思いながら、私は「茶雨庵」を辞しました。
庵の玄関に出たとき、尺八の、無限のような音色が流れてきました。大隈さんと久米さんが向こうの建物の「無限青山亭」の方を見ました。
しかし私は、その音の広がりからいって、遥か向こうの空に、なだらかな稜線を描いている青い連山の方から、音が流れてきているのだと感じました。

参考:岡倉覚三『茶の本』(岩波文庫)、熊倉功夫編『柳宗悦茶道論集』(岩波文庫)、野上弥生子『秀吉と利休』(新潮文庫)、勅使河原宏『利休』、九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫)、高谷道男編訳『フルベッキ書簡集』(新教出版社)、W.E.グリフィス著・松浦玲監修・村瀬寿代訳編『日本のフルベッキ』(洋学堂書店)、久米邦武『米欧回覧実記』(岩波文庫)、江後迪子『長崎奉行のお献立』(吉川弘文館)、
ほしひかる「サンフランシスコの咸臨丸」万延元年の遣米使節団-Ⅰ
http://www.edosobalier-kyokai.jp/kokkyou/ko_hoshi_kanrinmaru.pdf
ほしひかる「ブロードウェイの華麗なる対極」万延元年の遣米使節団-Ⅱ
http://www.edosobalier-kyokai.jp/kokkyou/250930hoshi_newyork.pdf

(前篇 完)

〔エッセイスト ☆ ほしひかる〕