第75話 ショパン「ピアノ協奏曲第一番」♪

     

 

 Soba

 2010年が暮れようとするころ、サンフランシスコから知人がやって来た。その人はサンフランでフード・ジャーナリストとして活躍しておられる日本人女性だが、この度は出版社との打ち合わせのための帰国ということだった。

 私たちが知り合ったのは同年の春、サンフランシスコ総領事公邸で開催された「蕎麦パーティ」のときだった。われわれ蕎麦打ちボランティア・チームは現地のレストラン関係者に蕎麦を振舞い、それを彼女が取材したのであった。

 「蕎麦」が縁で知り合った二人である。当然のように私は彼女を蕎麦屋へ案内し、彼女も私にそれを期待していた、と思う。

 共にサンフランシスコにご一緒したことのある「かんだやぶ」の堀田さん、つい最近カルフォルニアのナパにある料理学校で蕎麦打ちをご披露してきた「更科総本家」の堀井さん、蕎麦打ちの講師としてイギリスなどに行ったことのある「たかさご」の宮沢さんら、海外派の蕎麦屋さんをご紹介した。いずれの店主も日本食の代表である蕎麦に誇りをもって携われている方ばかりである。言い換えれば、「蕎麦」を英語の「Backweat」ではなく、日本語の「Soba」と表記したい口である。したがって、訪ねる方も迎える方も、少しでも意味のある一会になってほしいと願ってのご案内だった。

 

Chopin「ピアノ協奏曲第一番ホ短調 1楽章」♪

 そのうちの「たかさご」に入ったときだった。彼女は店内の暖かみのある電気照明を喜んでいた。そういえば、サンフランシスコのホテルから観る夜景もきれいだった。街の灯りは冷たい白色ではなく、暖かいオレンジ色だったことを私も思い出した。そうして食事のときの照明もきれいなことより、癒しの照明であるべきかもしれないと思った。

 そこへ、BGMが静かに流れてきた。クラシックだった。彼女は耳を傾けながら「いつも午前中はクラシック音楽を聞きながら、メールチェックをしている」と言った。

 「食卓の上には、香・視・触・味覚は揃っているけど、聴覚は少ない」と思っていた私は、特に蕎麦と合う音楽はないだろうかと探していた。一般的にはモダンジャズと蕎麦はよく合うといわれている。それはたぶん両者が、野に生まれ、都会で育ったという共通履歴のせいだろう。しかしジャズ以外に蕎麦に合う音楽はないだろうか、そんな考えを抱いた私は、ピアノの鍵盤の上を軽やかに滑る指を見ていると麺の細さ、とくに更級の白さに、ピアノ曲はよく合うのではと、いつのころからか思い始めていた。

 そこへ流れてきたのが、ショパンのピアノ協奏曲である。ピアノ協奏曲は、もちろんピアノとオーケストラによる演奏だ。私は耳を欹てた。いま演奏をしているピアニストも楽団名も知らなかったが、蕎麦とピアノ曲は想ってた以上にマッチしていると感じた。《ピアノ協奏曲=ピアノ+オーケストラ》は《蕎麦+汁》の協奏曲だとさえ思った。

 ただ、あのショパン特有の哀しすぎるメロディー、日本人の涙線を刺激するような悲しい旋律が流れてくると、耳がそれを捉えすぎ、ついつい手元が留守になってしまうのが惜しかった。

 店を出て二人で神田川の方へ歩いて行くと、川沿いに裸になった桜の樹が立っていた。

 「あっ、桜だ!」と彼女は冬の枯れ木を見ただけで感動した声を出した。そして「私はもう15年ぐらい日本の桜を見ていない。その分、人生を損しているみたい」と言って笑った。

 つられて私も春爛漫の桜吹雪の景色を宙に描きながら思った。

 あのショパンの名曲は、明日旅立つ異国の友人との晩餐にはふさわしい曲だったかもしれない、と。

 

Better Living As Human

 彼女がサンフランへ去った後も、私の中のサンフランシスコ・シンドロームは続いていた。

 1月からテレビドラマで「外交官 黒田康作」という番組が始まった。舞台はサンフランシスコだった。懐かしのコールデンゲート、坂道、ケーブルカーが画面に映っていた。

 

サンフランシスコ・ケーブルカー☆ほしひかる

  そして、『料理王国』と『旅』が発売された。2誌とも彼女が記事を書いているというので、読んでみた。『料理王国』には日本食の人気ぶりが、『旅』にはサンフラン近郊の農家や牧場が出店しているファーマーズ・マーケットなどが紹介されていた。

 あの大規模農業大国のアメリカで現在〝オーガニック〟の道を選ぶ人が増えているということは聞いている。それは単に無農薬とか、ヘルシーとかいうことだけではなく、イタリアの〝スロー・フード〟のように生き方にまで影響をおよぼしているという。

 翻って、われわれ日本人も、もっと何かを主張していいような気がする。たとえば、江戸ソバリエが謳っているBetter Living As Humanなどを。

参考:ピアノ=ユリアンナ・アヴデーエワ+NHK交響楽団「ピアノ協奏曲第一番ホ短調 1楽章」、ピアノ=アンネローゼ・シュミット+ライプツィヒ・ヴァントハウス管「ピアノ協奏曲第一番ホ短調 1楽章」、弦楽団、高樹のぶ子『ショパン 奇関蹟の一瞬』(PHP)、『料理王国』3月号(アビーハウス)、『旅』3月号(新潮社)、

  

             〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕