第81話 江戸蕎麦めぐり④

     

 

一 茶 庵 伝 説

  「横浜元町一茶庵」の片倉英統先生とは、『神奈川のうまい蕎麦選』のご相談以来、これまでずいぶん多くの蕎麦屋さんにご一緒させていただいた。何しろ「一茶庵」を創業した片倉康雄のお孫さんである。お蕎麦を頂きながら、いろいろと「一茶庵」の歴史を聞かせていただいたが、蕎麦好きにとってこんな贅沢なことはないと思う。

 

☆一茶庵流の誕生 

 片倉康雄(明治37年~平成7年)は蕎麦屋「一茶庵」を創業し、一茶庵流の蕎麦打ちを打ち立てた人としてよく知られている。

 当初、彼の蕎麦の深層イメージは、幼いころ母が打ってくれた美味しい細切りの蕎麦だったようである。

 大正15年(1926年)、康雄はただ自分の舌に残っている母の蕎麦だけを頼りに、新宿駅前食堂横町で「一茶庵」を開業した。22歳のときだった。

 若いころから美味しい物を食べ歩いていたという康雄の舌の力は抜群だったらしく、彼には食の天賦の才があったのだろう。それ故の無謀な康雄の蕎麦道を正しい方向に導いてくれたのは、文士の高岸拓川と滝野川「日月庵やぶ忠」の村瀬忠太郎だった。

 昭和2年(1927年)、客の一人であった川柳界の重鎮近藤飴ン坊の紹介で、生涯の蕎麦の師と仰いだ高岸拓川と出会うことができた。高岸は康雄に「現代の友蕎子を目指せ」と明確な道標を示し、「やぶ忠」の村瀬忠太郎のもとへと通わせるのである。

 片倉康雄の一代記を語るとき、よく彼の華麗な人脈が引き合いに出される。たとえば、陶芸家加藤唐九郎、作家深沢七郎、俳画家鵜月左青、「星岡茶寮」の北大路魯山人、両国「與兵衛素司」の小泉迂外(俳人)、作家長谷川如是閑、作家小林蹴月、京橋の料理屋「蔦屋」の本山荻舟(作家・随筆家)、向島の木地屋森下源一郎、塗り師江部伝咲、画家・詩人相田みつおなど。

 康雄は彼らのことを「師客」と呼んでいたらしい。そのなかでも、昭和初期の近藤飴ン坊、高岸拓川、村瀬忠太郎との出会いは大きかった。野球でいえば、近藤がスカウトマン、高岸が監督、村瀬が打撃コーチのような役割をもつ人たちであった。

 先ず近藤飴ン坊であるが、吉川英治の師井上剣花坊など多くの仲間を有する一方で、彼自身は同志の高木角恋坊らと「川柳」という名称を「寸句」「草詩」に変えようと提唱する、川柳界の革新派であった。そういう飴ン坊だからこそ、彼の眼に片倉の何かが見えたのだろう。康雄を多くの人たちに紹介している。ちなみに、飴ン坊は「鮟鱇は 北風寒く 痩せて行き」「蜆汁女将 岡崎在 生まれ」「高麗狛の 鼻で踊って 椿落つ」「骨揚げに 泣き泣き金歯 探して居」などの川柳を残している。

 次の高岸拓川(1868~1963)は、日本料理・精進料理研究家の林春隆(1868~1952)、(社)日本料理研究会(昭和5年設立)初代会長三宅狐軒、料理ジャーナリストの松崎天民(1878~1934)らと『おでんの話』を富可川本店より刊行(昭和7年)。また松竹新派付の劇作家・演出家の落合浪雄らと、『明治文化版画大鑑明治文化篇』『明治文化版画大鑑 明治演劇篇』などの刊行実績をもつ文士であるが、江戸時代の『蕎麦全書』と、その著者友蕎子をよく理解していたからこそ、康雄に標を与えることができ、また村瀬という打撃コーチを提供できたのである。

 その打撃コーチである村瀬忠太郎は、赤坂新町の「美濃屋養老庵」の2代目として安政6年に生まれた。父親は元武士で麹町の「瓢箪屋」で修業したという。その蕎麦は地域がら大名蕎麦である。松平出羽守、吉川監物、毛利淡路守、谷大膳大夫、岡部筑前守などの屋敷へ、変わり蕎麦 ― なずな切、若草切、荒磯切、木の芽切、芥子切、菊切、いも切、茶蕎麦、蜜柑切、らん切、鯛切、海老切、貝切、五色蕎麦 ― をお届けしていた。

 忠太郎口述の『蕎麦通』には「明治になってから、二八とか、駄蕎麦とかの大衆蕎麦ばかりになった」と江戸を懐かしんでいる。このことを江戸蕎麦ファンのわれわれは注視すべきであろう。康雄も忠太郎の嘆きを見逃さなかった。返ってそれを目標にして一茶庵の蕎麦としたのではないか、と私はみている。

 そうした「一茶庵」が本格的に評判になっていくのは昭和8年(1933年)に大森に店を開いてからである。ただ順調だった大森店も第二次大戦で閉鎖を余儀なくされ、あらためて昭和29年(1954年)に足利市長木村浅七らの勧めで再起するのであるが、これ以降の歩みについては蕎麦好きの間では広く知られていることである。

 

 ただ、ここでどうしても述べておきたいのが、「一茶庵」飛躍の秘密である。そのことを英統先生に尋ねると、「教室ではないか」と即答された。

 昭和45年(1970年) 太田市東長岡焼山に設立した友蕎子そば研修所を皮切りに、昭和48年(1973年) 多田鉄之助とともに上野の東天紅料理学苑で開講した「日本そば大学講座」、昭和50年(1975年)中野坂上で開いた「片倉友蕎子そば教室」、これらが「一茶庵」ならではの特色である。

 今まで業界の暖簾は一子相伝にちかい形で引き継がれてきたが、片倉の教室はそれを崩すダイナミックなシステムであった。お蔭で、いま一茶庵系と呼ばれる蕎麦屋さんは全国1000軒を越すといわれている。

 その祖父片倉康雄の遺志をよく守り、教室指導を展開しているのは、「横浜元町一茶庵」の片倉英統先生であろう。

 

 拓川の墓前へ

 ある日、江戸ソバリエの杉井さんから電話をもらった。「いま、大黒屋さんにいるけど、ご主人が用があるとおっしゃってる」ということで、代わってもらうと、「近いうちに高岸拓川の墓参りに行くが、一緒に行くか」とのこと。

 私は、ちょうどこの原稿を書いていたところであった。すぐに「お伴させてください」とお願いした。

 大黒屋さんは片倉康雄の直弟子である。だから、拓川が執筆していた『蘇番経優曇経』― 蕎麦の効能などを仏典用語でまとめた全文漢文で書かれたユニークな蕎麦経典 ― を持っておられる。康雄が師と仰いでいた拓川が死去した昭和11年の翌年に刊行された経である。その復刻版を私は持っているが、大黒屋さんがお持ちの和綴じの本物は工芸品のように素晴らしい。「師匠の発想力は凄かった」と当時のお弟子さんたちが舌を巻く、片倉らしい凝った作品であると思う。 

蘇番経優曇経

 

 その日、「大黒屋」のご主人と拓川の墓へお参りした。墓を洗いながらご主人は「何か行きづまったとき、ここにくると心が晴れるような気がする」とおっしゃる。私は大黒屋さんの姿に頭が下がった。

 【高岸拓川の墓】

参考:片倉康雄『蘇番経優曇経』、平成18年復刻版『蘇番経優曇経』、1998年復刻版『蕎麦通』、薬王院、楠本憲吉『美味求心』(総合労働研究所)、

〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる