第89話 「祖谷の粉ひき節♪」
お国そば物語⑤祖谷蕎麦
☆祖谷の粉ひき唄
祖谷のかずらばしゃ 蜘蛛のゆの如く 風も吹かんのに ゆらゆらと
吹かんのに 吹かんのに 風も 風も吹かんのに ゆらゆらと ♪
祖谷のかずらばしゃ ゆらゆらゆれど 主と手をひきゃ こわくない
手をひきゃ 手をひきゃ 主と 主と手をひきゃ こわくない ♪
【祖谷のかずら橋☆ほしひかる絵】
ラジオから流れてくる、濱田真美さんの幻想的な「祖谷の粉ひき唄♪」を聞いてから、日本三大秘境の一つといわれる祖谷に行ってみたいと思うようになった。
そんなとき、「蕎麦春秋」の編集の方から祖谷蕎麦の取材をしないかと持ちかけられた。もちろん二つ返事でお引き受けした。
☆平家落人伝説
飛行機に乗る度に、宗教学者の山折哲雄氏の言葉を思い出す。「高度3000㍍から見下ろす日本列島は縄文時代さながらの森林列島。高度500~1000㍍まで下りると列島には弥生時代からの水田が広がる。そして高度500㍍から見ればビルがひしめき合う現代社会がある」。景観とは文明そのものであるということであろうか。
徳島空港から私は、奥祖谷に向かった。バス→JR徳島線→JR土讃線→バスと乗り継いで行く。
かつては阿波の桃源郷と呼ばれていた祖谷山は、平家落人伝説の里としても知られている。
時は源平合戦のころだった。平家に国盛という武将がいた。伝えるところによると、平清盛の弟教盛の次男ということになっているが、系図には記載されていない謎の人物である。〔屋島の戦い〕で平家が敗退したとき、国盛はまだ幼い安徳天皇をお護りして屋島を逃れ、讃岐山脈を越えて吉野川を渡り、井内谷から寒峰を登って、ここ剣山の麓の大枝に至ったという。1183年の大晦日のことであった。一行は現在の栗枝渡の八幡神社辺りに仮御所を造営した。しかし祖谷山の厳しい気候は帝の幼い身体には辛すぎた。哀れ幼帝は入山一年余で崩御した。遺臣たちにとって、精神的支柱であった安徳帝の死は大きかった。落人の平家再興の夢は挫けてしまった。泣く泣く国盛たちは平家であることを捨て、山奥の民として生きることにした。そして1207年、頼みの大将である国盛も他界した。子孫に残された道は、①確かな物証を自ら捨てて、②名門の血を引いているという自負のみを心のなかで大切にし、山の民として生きていくことだった・・・・・・。
これが平家落人阿波伝説である。それを裏付けるかのように、剣山西麓から流れる祖谷川沿いには、皇宮の太鼓田、天皇森、安徳帝のご火葬場、八幡神社、鉾神社、平家屋敷などの伝説の足跡が遺っている。
一般には『平家物語』というのは、〝滅び〟ということを劇的に、美しく描いた文学であると評されている。それに対して、「落人伝説」というのは「生きろ! 生き続けろ!」という人々の願いが込められている。国盛の子孫たちも、落人の宿命的な掟を守って生き続けきた。とうぜん峙つような所に育つ蕎麦は、彼らにとって何よりも貴重な食糧(麺や蕎麦米雑炊として)であった。その蕎麦を現代では「祖谷在来種」と呼ぶ。
☆祖谷の粉ひき節
奥祖谷の落合橋の傍にある「そば道場」の上野利信・ヒサエさんご夫妻を訪ねた。理由は、ここだけが純手打ち蕎麦を守っているということを耳にしていたからであった。店内に入ると、江戸ソバリエの講師であった故・高瀬礼文先生の句の色紙が飾ってあった。
「めん棒に つきたる花ぞ 枯尾花」
その隣には(社)日本蕎麦協会の「平成七年度全国そば生産優良地区」の表彰状も並んでいた。
今の店の蕎麦は、九一で、蕎麦粉は祖谷産と徳島産のブレンドだという。残念だけど、最近は祖谷蕎麦を栽培する人がいなくなって収穫量が少なくなったから、ブレンドにしているという。
「祖谷在来種」を見せてもらったが、普通の蕎麦よりやや小粒であった。ちょうど数日前の8月5日に種を撒いたばかり、75日経った10月に刈り取る予定だという。祖谷は昭和30年代までは焼畑だった。そのころは春焼きと夏焼きがあって、蕎麦や小豆は夏に焼くのだという。
お店の裏が蕎麦打ち教室であった。そこで奥さんが蕎麦を打ち、ご主人と奥様が古の祖谷蕎麦にさいて語ってくれた。
当時は、蕎麦の実を自宅の石臼で挽いて粉にしていた。蕎麦粉は十割、繋ぎに少し山芋を入れることもあった。蕎麦を打つときは、座ってやっていた。今のように打ち台はなかったから、力がはいらなかったのだろう、代わりに時間をかけていた。鉢は刳り抜いた生地鉢、漆鉢のようにしゃれたものじゃなかった。延し棒は一本だけ、鍬の柄のようなものだった。延すときの打ち板は、家が広かったせいか、大きかった。板の一辺が1㍍以上もあったし、重かった。延し棒で丸出しに延した。たたみ方は円形に延したものを二回折りたたんでいた。庖丁が小さかったので、蕎麦も短くでき上がった。小間板はなく、手小間だった。水は山の水、茹でるときはそれを沸騰させ、芯までしっかり茹でる。途中「びっくり水」と呼ぶ差し水を二回して、できあがり。それを一人分を一玉にして作っておいた。出汁はいりこ、それに醤油と少し味醂と砂糖を少々入れた。食べるときには玉を湯洗して、浅めの器によそい、温かい掛け汁を注いで食べていた。具は葱がほとんど、たまに生姜、山芋、油揚げを入れることもあった。
話を聞いているうちに、蕎麦が打ち終わった。お店の方に戻って、打ち立ての祖谷蕎麦を食べさせてもらった。祖谷蕎麦は、蕎麦独特の芳香と、舌触りの良さと、滑らかな喉越しが最大の魅力であった。こうしたお国料理、郷土料理というものは、現代の、都会の舌で味わうものではない。
箸袋を見ると、あの「祖谷の粉ひき節」の歌詞が書いてあった。祖谷蕎麦は、奥祖谷の山に木霊す平家千年の旋律を心で感じながら食べるべきだということだろう。確かに、それが現代の都会の舌がもっとも嫉妬する味わい方であるといえよう。
粉ひけ粉ひけと ひかせておいて あらい 細いの なしょたてる
あらいの あらいの 細い 細いの なしょたてる ♪
粉ひきばあさん お年はいくつ わたしゃひき木と うない年
ひき木と ひき木と わたしゃ わたしゃひき木と うない年 ♪
参考:「蕎麦春秋」Vol.7、お国そば物語(第66、44、42、24話)、濱田真美 唄「祖谷の粉ひき唄」(youtube)、
〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト☆ほしひかる〕