第123話 これが江戸蕎麦
☆手打ち蕎麦の話
都電の大塚駅から三業通りを歩いて行くと「小倉庵」という蕎麦屋さんがある。その店で江戸ソバリエの会の一つである「七江会」(代表:吉田道人さん)の忘年会が開かれたが、「大塚に住んでいるから」ということで私にも声がかかった。
【都電☆ほしひかる絵】
趣味の会の集まりというのはいつも笑い声につつまれてと楽しく行われるものである。そのなかで、幹事の宮本さんの企画による「手打ちと器械打ちの比較試験」が行われた。最初は「手打ちと器械打ちの比較」ということはことわらずに、単に「比較試験」とだけ言って進められたので、ほとんどの人がてっきり「産地テスト」とばかり思いながら、Aを食べて、次にBを口にした。しかしAを食べたとき、それが器械・均一的食感だったので、初めて「そうか、器械打ちと手打ちの比較だったんだ」ということが判ったようだ。
もっとも、そう思うのは無理からぬことで、こういう「手打ちと器械打ちの比較」というのはあるようで案外機会がないからである。
さて、その場でのチェック項目は、色がいいか、香り高いか、コシがあるか、喉越しがいいか、つゆを付けないで美味しいか、つゆを付けて美味しいか、であった。結果は、手打ち蕎麦(つゆを付けても、付けなくても)が圧勝した。また各項目においても手打ちの方が得点は高かったが、とくに香りと、コシにおいては圧倒的に手打ち蕎麦に軍配が上がった。
われわれ劣等生は「試験」と言われると、ドキドキする習性が残っている。そして迷いながらも答を書いて、後に解答を教えられたとき「な~んだ。やっぱりそう思ったんだ」などと後悔したり、妙に納得したりした経験が多々ある。
しかし、今宵の場合は、さすがにソバリエさんである。各項目は当然のように手打ちと器械打ちの差をきれいに分けた結果になっていた。
◎香り高い ⇒ 手打ちは挽き立て、打ち立てだから当然である。
◎コシがある ⇒ 手打ちは器械打ちと違って均一ではないから当然である。逆にいえば、日本人は手打ちに、非均一の均衡 → 硬くも軟らかくもない → 多少の粘っこさをもつ弾力性、といったことを求めてる。主食であるご飯からしてそうではないか。
◎喉越しとは、一気に啜ったときに喉を叩く感触である。例えば、ビールを一気に呑んだときに喉を通る刺激がそうだ。もしビールを口の中でクチュクチュして飲み込んでも喉に刺激は感じられない。もっと刺激的な例を引っ張り出せば、胡椒や唐辛子溢れる液体を一気に呑んだら喉がヒリヒリするだろう。これが喉を叩く刺激。もしそういう液体でも用心してゆっくり飲めば喉への刺激は薄らくだろう。だから、喉越しは手打ちだとか、器械打ちとかに、さほど影響されない。それより啜りやすいほどに(マッチ棒ぐらいに)、麺が細く切られているかどうかに関わってくる。
そんなことから、われわれ日本人は喉越しを求めて一気啜るのである。一気に啜ったその結果、香りが鼻腔に達し、香りまでも十分味わうことができる。香りといえば、味噌汁にしてからがそうではないか。椀を手に持って、汁を啜れば、深い愛情すら味わうことができる。
その一方、洋風のスープをスプーンですくう方法は舌のみで味わう食べ方でしかない。
ましてや、クチュクチュ、カミカミ、モグモグは、喉越しや香りを六官で味わうという、和食の美学を否定した食べ方なのである。
☆細切り蕎麦の話
神田に「まつや」さんという蕎麦屋さんがある。もう7、8年も前になると思うが、某マスコミさんがわれわれ江戸ソバリエを取材したことがあった。
あれやこれやと進めているうちに、「細切りと太切りの比較試験をやろう」ということになった。今は細切りと太切り蕎麦や産地別の蕎麦を出してくれる店が増えたが、当時は細切りと太切り蕎麦を揃えている店はめったになかったから、担当ディレクターさんが提案したこの実験には価値があったし、意味もあった。
結果は、全員が「細切り蕎麦が美味しい」という方に手を挙げた。
ただ、この結論は分かっていた。われわれ江戸ソバリエから見れば当然のことであるが、実際にいざ公開というとき、他の取材はオーケーになったが、「細切りと太切りの比較試験」の方はボツになった。
担当者の上司に当たるチーフディレクターさんの「そんなはずがない。太い方が細切りより旨いに決まっているじゃないか」という判断からである。
実は、こういうことはよくある話で、一般的に、(1) 蕎麦を食べ慣れていない人と、(2) 地方の人は、太い方がいいとおっしゃる。われわれはその非常識の常識を正そうと思って実験をやったのであるが、残念だった。
代わって、ここで言いたかったことを述べてみよう。
先ず、物事というのは、「こういう理由で、これが一番、それが二番、あれが三番」という具合に縦並びの順に決定しなければならない。というのも、その「順番」に理由・論理性があるからである。決して、「右か、左か」の横並びの並列選択で決めてはならない。それは 「好きか、嫌いか」という感覚の判断に陥るからである。
論理性というのは、「学」でもある。だから「料理学」「蕎麦学」で料理の本質、蕎麦の原理原則を学んでなければならない。その原理原則とは「料理は、地方で生まれ、都会で完成する」ということである。言い方を換えれば「食材は地方の生産者が作り、料理は都会のシェフが完成させる」または「料理はシェフの腕にかかっている」ということだ。
それ故に、都会のシェフが切磋琢磨して完成させた、都会の料理が美味しいのは当然のことである。よくテレビで漁師さんが切ったり焼いたりした魚が一番旨いというような番組をはしゃぎながら放映していることがあるが、それは食材が新鮮だということであり、料理が美味しいということではない。あくまで漁師は魚を獲る専門家、シェフは料理の専門家である。
そのことは蕎麦においても然りで、江戸の蕎麦職人たちが切磋琢磨して「江戸蕎麦」を完成させ、その特徴の一つとして「細切り」が美味しいとした。その理由は上述した喉越しだったのである。
ところが、ある地方の蕎麦愛好者の方が「東京の人は何が何でも細切りが旨いというが、そんなことはない」と言いながら、出された太切りの蕎麦を拝見すると、打ち方も盛り付けもすべてが江戸流であった。それは判断基準を「好き、嫌い」の感情論に置いて、「細いか、太いか」を問題にしておられるからであった。もちろん、この感情論の中には「食べ慣れているから」という地方の慣習や、「それしか知らない」という未体験も入っているのである。
だが、そうではなくて、この場合は「蕎麦が一番旨いのは細切りでしょうが、たまには太切りをどうぞ」とか、太切りでなければならない蕎麦料理を持ち出して、「太切りの方が旨い」と言わせる姿勢が必要ではないだろうか。
とにかく、その場では「もっと蕎麦のことを勉強してほしいナ」と心の中で願いながら、〝美味しく〟頂いたことがあった。
参考:電車シリーズ(「蕎麦談義」第123話【都電】、国境なき江戸ソバリエたち「明日に架ける橋」【サンフランシスコのケーブルカー】【ナパのワイントレイン】)
〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕