第126話 「一富士、二鷹、三茄子」
~ 私の初夢 ~
私の生きた時代は、Ⅰ.昭和の戦前、Ⅱ.昭和の戦後、Ⅲ.平成の3つである。もちろん私たちより先の父の世代にもある区切りがあっただろうし、私に続く息子の世代にもそれがあるだろう。そして、この三世代はお互いに重なっている部分があるし、それでいて時代は絶えることなく流れいくのである。まさに鴨長明の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の文言通りである。
ところで、このうちのわれらの時代を「食」の視点で見てみるのも、蕎麦という食に関わっている者の務めであると思う。
そんなわけで、冒頭のⅠ.Ⅱ. の時代を振り返って見ると、Ⅰ.胃腸 満足型 ⇒ Ⅱ.舌・頭脳 贅沢型 ⇒ といえるのではないだろうか。むろん年の多少のずれはあるかもしれないが。そして続くⅢ.は明らかに胃腸 満足型、舌・頭脳 贅沢型ではない。では、何型と呼んだらいいのだろうか?
その前に、いま思うとⅡ. からⅢ.への変化は、九州から「一村一品運動」が起きたり、島村奈津さんがイタリアの「スローフード」を日本に紹介したころから、何かが変ってきたような気がする。そこに共通する「何か」を敢えて刺激的な言葉でいえば「地方の反乱」ということであろうか。
「スローフード」というのは、ご承知のように「ファストフード」に対抗して生まれた運動である。その運動のポイントはお皿の外のこと、生産現場についてもっと知ろうということであった。しかしながら、ファストフード店が都会に多く存在していたこともあるが、「スローフード」⇔「ファストフード」が田舎 ⇔ 都会という対立構図へと曲解してしまった面があった。
「リストラクチャー」の曲解から生みだされた「リストラ」を信奉した経営者を経済紙が熱く讃えたのはつい最近であった。以来、日本の空から晴間がなくなったように、無闇な田舎礼讃は日本をまた風雨に晒すようなことになりはしないかと危惧している。
話は少しちがうかもしれないが、過日も某テレビ局で「お百姓さんに蕎麦打ちを習おう」という番組を放映していた。プロのお蕎麦屋さんは無論のこと、われわれ江戸ソバリエから見てもトンデモナイ話である。なぜなら、お百姓さんは生産のプロであって、蕎麦打ちの専門家ではない。似たような話で、漁師が造る刺身が一番旨いといった類の番組も多々流れ、視聴者は催眠術にでもかかったようにそれが本物だと錯覚してしまう。
ともあれ、こうした状況を分析してみれば、現代では(1)外注化、画一化、個別化、自由化、多様化という複雑な大波をうけているからこそ、必死で人々は(2)スロー性、地域性、記名性、少量性、手作り性、物語性といったアナログ的浮袋を求めていることは、皆さんもすでにお気付きのことであると思う。簡単にいえば、都会の便利、簡便性の裏返しである。とはいっても、考え抜いて、生活態度を変えたわけではない。普段は都会から離れずに、偶に地方へ行って、漁師の刺身でも食べたいという横着さにすぎない。だから、上っ面の「スローフード」「地産地消」に賛同しているということだ。
断っておくが、「スローフード」「地産地消」そのものは素晴らしい考え方であるし、その運動に携われておられる方は立派な方ばかりだ。 しかしながら、作家の半藤一利さんに言わせれば、日本人は単純な四文字スローガンによる集団催眠に陥りやすい、らしい。たとえば、幕末の「尊皇攘夷」、明治政府の「王政復古」、戦時下の「鬼畜米英」、高度成長期の「列島改造」、小泉元首相の「郵政改革」。与野党がスロガーンにした「政治改革」、経営者の「リストラ」「危機管理」も然りである。この四文字お経を唱えさえすれば、みんなが極楽へいけるという集団熱病に罹っていたとしか思えない。
それはたいていが、たとえばアンケートをしたとき「どちらともいえない」にチェックするような人たちは、積極的な中庸思想で△印を付けるのではなく、何も考えないていないためにドッと四文字スローガンに流されるのである。
話は横道に逸れてしまったが、もう都会対地方の構造的発想は止めたらどうだろうかということを提案したい。
と思っていたところへ、日本は3.11という大規模災害に襲われた。われわれは災害時には、都会は生鮮食品が買えなくなる、地方は売れなくなるという事態を想定しなければならなくなった。
ということは、日本列島を都会だ、田舎だと分けるのではなくて、あるブロック内に「都会と田舎」「消費と生産」体制を作らなければならない。つまり、関東の人間は、江戸蕎麦、江戸野菜、江戸前魚介、関東の肉を生産し、食しようということだ。そうした中の「スローフード」「地産地消」でいきたい。
だから蕎麦でいえば、常陸秋蕎麦や千葉在来を代表とする関東の蕎麦を守っていきたい。
たぶん、こうした考え方に賛同する人は、江戸ソバリエ宣言で主張している「独自性、自律性をもち、それでいて粋な仲間と楽しく」やれる人たちだろう。
世間では、絆、ハート型、メリハリのある参画型、ボランティア型などともいわれている。
そう。明日のわれわれには、Ⅰ.胃腸 満足型 ⇒ Ⅱ.舌・頭脳 贅沢型 ⇒ Ⅲ. ハート メリハリのある参画型の道がある・・・・・・。
これが私の初夢♪ だった。
そういえば、縁起のいい初夢として昔は「一富士、二鷹、三茄子」ということがいわれていた。元々は「駒込は、一に富士神社、二に鷹匠、三に美味しい茄子がある」という意味だったそうだが、そのいわんとするところは、地元の良いところに目を向けようということではないのだろうか。
参考:鴨長明『方丈記』(岩波文庫)、
〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる〕