第142話 「食器は料理のきもの」
食の思想家たち五、北大路魯山人
入場券売場も、入口も、大勢の人でいっぱいだった。ここは、ある「食の祭典」の会場である。場内は賑わい、B級グルメとして人気の××や、丼品評会なる食のゲームの箇所は長蛇の列が続いていたし、そうでない一般の食べ物ですら並んで、手に入れなければならなかった。
何事も後学のためとやって来た私も、並んで求めて、発砲スチロールの容器に盛ってあるそれを立ったまま食べた。近くには卓も椅子もない。だから皆さんがそうしていた。
明治の福澤諭吉は立食の異常さを「百鬼立食」と表現したが、今では皆さん楽しそうだ。私一人が「並の代金を支払っているのに、なぜ立喰いなのか? なぜ発砲スチロールの器で食べなければならないのか?」と不満気な顔をしていたにちがいない。
日ごろから私は、ファストフード店の安易な使い捨ての容器が好きでない。どこかで「食育」という言葉が流行っているわりには、合理化重視のために逆の方向に流れているような気がしてならないのだ。
そんなとき思い出すのが、書道家で、陶芸家で、料理家で、美食家だった北大路魯山人(明治16年~昭和34年)の言葉だ。
彼は「良い料理には良い食器が入用で、良い食器には良い料理が要求される」と言ったという。
私は美味しい蕎麦は食べることは好きだが、決して美食家なんかではない。しかし、食に対して常識程度の五感、六官はもってほしいと願っている。
そのひとつが食器に対する感性である。
私の故郷は磁器のクニ佐賀である。だから幸いにも子供のころから、ある程度の食器を使って食事をしてきた。
それが大学に通ようために上京してきたとき、東京の一般的家庭の貧弱な食器を見て、そこら辺に在る物で間に合わせようとする姿に18歳の身ですら驚いたものだった。
「食育」などと大上段に構えるつもりはないが、日常からちょっと意識して身の周りを観察すれば、「佳品」と「そうでない器物」の違いが見えてくるはずだ。そこから向上心や審美眼が生まれてくれば、徐々に美の世界が拓けてくると思うのだが、あんがい世間は無頓着な面があるものだ。
ただ、最近は蕎麦屋さんも、「一茶庵」系や「竹やぶ」系、あるいは「ほそ川」さんなど器物に注意を払う店が増えてきたから、喜ばしいと思っている。
少なくとも、食をビジネスとするなら広い視点で美味しい料理を演出してほしいものだ。
☆魯山人の蕎麦
魯山人といえば、彼がモデルだといわれている岡本かの子の小説「食魔」にも蕎麦が出てくるし、また魯山人は名店「一茶庵」を創立した片倉康雄に大きな影響を与えたともいわれているが、魯山人の蕎麦というのが、どういうものかなかなか分からなかった。
それを、柴田書店の『魯山人と星岡茶寮の料理』が明確にしてくれた。
もともと日本の料理には締めに蕎麦などの麺類が供されていた。これを後段という。料理店の場合は、蕎麦などは自ら打ったものではなく、取り寄せるのが一般的であったが、魯山人は自前で打とうと考えた。その希いは蕎麦打ち名人との出会いによって拓けた。
魯山人は星岡窯(北鎌倉山崎)を開く以前は、器を京都の宮永東山(1868-1941)に製造委託していたが、その東山窯で蕎麦打ちが得意だという刀鍛治の竹林新七と出会った。当時、新七は宮内省御用鍛治・堀井胤吉 (1821-1903、月山貞吉、大慶直胤に師事、堀井家初代) の門下であったが、この出会いによって、昭和3、4年ごろ北鎌倉星岡窯に招かれ、蕎麦打ちを指導。新七の蕎麦打ちは、蕎麦粉1升、卵6個、麺の太さ5厘というものであったそうだ。彼は、この生蕎麦の他に、茶蕎麦、薄桜(食用紅を使う)、黄金蕎麦(蕎麦粉1升、卵黄身12個)なる蕎麦も披露したという。
世界では押出麺が主流の中、「切麦」や「蕎麦切」とか呼ばれる麺が存在する切麺王国日本だけに刀鍛治が蕎麦打ち名人とは何か象徴的なような気がする。
が、そのことはさておくとして、星岡の蕎麦は山芋をつなぎにしたらしい。もちろんこれも新七の紹介であった。自然薯4、5本を下して混ぜ、それに水1合を入れて錬る。蕎麦汁は、鰹節出汁+昆布出汁+淡口醤油。薬味は、京都の辛み大根だった。
有名な『蕎麦全書』(1751年)には、「長芋よろし。長芋自然生もっともよろし」とある。自然薯は江戸の昔からのつなぎの方法だったが、それを魯山人は求めたのだろうか。
それにしても魯山人は、それらの蕎麦をどういう器に盛っていたのだろうか、蕎麦猪口はどういう物だったのだろうか、なかなか興味深い。
魯山人 曰く「食器は料理のきもの」なのだから。一度くらいは、魯山人蕎麦を啜ってみたかった。
参考:北大路魯山人『魯山人味道』(中公文庫)、北大路魯山人『魯山人陶説』(中公文庫)、柴田書店『魯山人と星岡茶寮』の料理、白崎秀雄『北大路魯山人』(中公文庫)、小島政二郎『北落師門』(中央公論社)、北大路魯山人『魯山人の食卓』(グルメ文庫)、岡本かの子「食魔」(新潮文庫)、日新舎友蕎子『蕎麦全書』(ハート出版)、福澤諭吉『福翁自伝』(旺文社文庫)、谷崎潤一郎『美食倶楽部』(ちくま文庫)、「食堂」(『島崎藤村全短編集』郷土出版社)、
「食の思想家たち」シリーズ(第67話「村井弦斉」、73話「多治見貞賢」、137話「貝原益軒」、138話「林信篤・人見必大)、
〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕