旧満洲國奉天市鐵西(テツニシ)区に進出していた企業
執筆者:編集部2
前回は、鐵西区に進出していた食品関連の企業のことを記したが、今回は、それらも含め、 どのような会社が鐵西区に工場をもっていたかを一覧表にまとめてみた. 表の下に示したとおり、主として奉天市市公署が昭和15年10月に作成した『鐵西事情案内』という産業誘致資料と、満洲日々新聞が昭和14年の1月から2ヶ月強にわたって連載した『躍進奉天工業界の花形 工業満洲の縮図 生産一億円突破も近し“東洋の鐵西”出現』という見出しで始まる連載記事を元に作成したものであるが、我々の記憶にはっきりと残る昭和16年或いはそれ以降に進出した企業も1~2補足追加した.
鐵西の開発・建設のペースは、大東亜戦争突入以降にむしろ加速していたと考えられるので昭和20年の終戦時点では、おそらくこれに倍する以上の企業数となっていたことは想像に難くない.このことは、日夜目にし耳にしていた凄まじい勢いの諸工場および社宅建設工事の記憶もさることながら、鐵西尋常高等小学校(後の奉天鐵西在満国民学校)の在校生数がうなぎ上りに増え各学年の学級数も増加し、一部が『至誠在満国民学校』として分離独立した後も生徒数の増加が続いていた事などからも容易に推察できるところである.
表の右カラムには、各企業の出資者或いは系列を示したが、不詳なもの或いは社名から容易に類推できるものなどは省いてある.70年後の今も我が国を代表する多くの会社が、昭和15年当時、鐵西に製造拠点を有してしていたことや、満洲電線や満洲車輌などへの財閥系列を超えた出資企業の多彩さなどに新鮮な驚きを感じられる向きも多いのではなかろうか? 当然のことながら、これらは零細な『町工場』ではなかった.自動車ではなく鉄道貨車が輸送の主体であったこの時代、鐵西の工場地域には鉄路が縦横に張り巡らされ広大な敷地の各工場には専用線が引き込まれていた.
旧奉天市鐵西区に進出していた会社* (主として昭和15年年央迄に進出していた会社) |
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会社名 | 出資会社・資本系列など | |
浅野スレート | ||
亜細亜麦酒 | 麒麟ビール | |
嘉納酒造 | ||
川崎鉄鋼 | ||
関西ペイント | ||
金鑛精錬所 | ||
グリコ奉天工場 | ||
恵燐火柴 | ||
興亜印刷 | ||
康徳染色 | ||
国華ゴム工業 | 日華ゴム<つちや足袋㈱> | |
佐々木商会 | (ペーチカ、満洲型ストーブ) | |
三盆和衛会社 | ||
三立製菓 | ||
縞屋合名会社 | ||
神東塗料 | ||
鶴原製薬 | ||
東亜鉛筆 | ||
東奉製菓 | ||
東洋製粉 | ||
東洋タイヤ | ||
東洋木材 | 秋田商会木材 | |
中山鋼業所 | ||
七福醤園 | ||
日満鋼材 | 川崎東洋製鋼 | |
日満製菓 | ||
日満鎔材 | ||
日本水産 | ||
日本ペイント奉天工場 | ||
富士電気工廠 | ||
奉天酸素製造公司 | ||
奉天製作所 | 東芝、石川島 | |
奉天紡紗廠 | ||
奉天窯業 | ||
本加納商店 | ||
前田工務所 | ||
満洲小野田洋灰有限公司 | ||
満洲機器 | 三菱系 | |
満洲鋼機 | ||
満洲紙工 | ||
満洲車輌 | 日本車輌、大阪汽車、川崎車輌、日立車輌、田中車輌、住友金属工業、神戸製鋼、日本光学、日本エイヤブレーキ、大阪発動機、三菱重工業、東京機器、満洲機器、他 | |
満洲酒造 | ||
満洲住友金属 | ||
満洲精糖株式会社 | ||
満洲製壜 | ||
満洲製麻 | 安田系 | |
満洲石炭液化工業 | ||
満洲高岡組鉄工場 | ||
満洲武田薬品 | (終戦時、ビタミンC合成工場の建設が進行中) | |
満洲通信機 | ||
満洲電線 | 住友電線・藤倉電線、その他(古河電気、日立製作所、大日電線、東京製線、日本電線、昭和電線、津田電線、東京電線) | |
満洲東京電気 | ||
満洲野田醤油 | ||
満洲麦酒第一工場 | 麒麟麦酒 | |
満洲麦酒第二工場 | 大日本麦酒(朝日麦酒、札幌麦酒) | |
あ満洲日立製作所 | ||
満洲福助産業 | ||
満洲増島工作所 | ||
満洲明治製菓 | ||
満洲横河橋梁 | ||
満洲製麻 | ||
満日亜麻紡織 | ||
満蒙毛織 | 東拓、満鉄 | |
吉木工務所 | ||
* 出典
1. 鐵西事情案内 奉天市公署 康徳7年(昭和15年)5月 発行 関係者の記憶により昭和15年以降に進出した企業も一部追加) 社名、責任者名などから明らかに満系と思われる企業は略した. |
【訂正】
前回、『国民学校3年生か4年生のとき、ある製菓会社(確か三立製菓ではなかったかと思うが自信はない)に学校から一日作業に行った。勝鬨飴というあめの包装の仕事だったが、甘いものが乏しくなりかけていた頃のことで、皆せっせと飴玉を口に含んでの作業だった。』と記しましたが、同級生の記憶では、これは6年生の時の話で、行った先は人により記憶が違い、明治製菓だったする者もあり、森永製菓だったと言う人もありますが、『勝鬨飴』という名前には間違いはなかったようです。時期については、いわれて見れば、4年生当時(昭和17年)、まだ甘いものにはそれほど不自由していませんでした。 訂正終わり。