<コンビ二創業戦記・別伝>「DCVS回想録」第30回

      2016/07/23  

『懐かしのローソン東富士ゲストハウス時代(1994~2002)』(その11)

<その他のことども>(その4)

「チャレンジオーナー激励会開催」

ーー1994年(平成6年)11月9日ーー

当時、ダイエーグループ社員の独立制度として、「ローソン・チャレンジ・オーナー制度」が推進され、急速に増加し始めていた。

ローソンでは、ゲストハウスを開設、加盟店研修体制が整備充実されたのを機に、「チャレンジ・オーナー・制度」のさらなる加速を図るべく、チャレンジ・オーナー激励会を、開催していくのである。

 ローソン5000店舗達成記念のこの年、上半期にスタートしたチャレンジ・オーナー55店舗のオーナー夫妻110名の皆さんを、ゲストハウスに招待して開催したのが、この激励会である。

ダイエーーグループ社員が、サラリーマンから脱サラして、コンビ二店経営者に転身することには、不安もあり、かなりな決断を要したことだろう。

何よりも、奥さんや家族の同意と協力を得ることが、独立成功の不可欠な必要条件であった。

少しでもその不安を和らげ、本部のサポートへの信頼感を深める所に、激励会開催の趣旨があったと思う。

と同時に、そのことによって、後に続く人たちへの強い勧誘インセンテイブとしたいとの思惑もあったかもしれない。

チャレンジ・オーナー激励会は、福岡、大阪、東京などの各地で、度々開催されることになる。

 

 (激励挨拶される中内CEO) 

 (遠藤さん、関口さん、上沢さん、筆者)

 

  

<中内さん囲み、石川さん、筆者、関口さん、須田さん、松岡さん、小松さん、上沢さん>

「中内さんからの手紙」

1998年6月、中内最高顧問から、直筆で書かれた私宛の激励のお手紙をいただいた。

ペン書きや活字で打たれた手紙は何度か戴いていたが、和紙に毛筆で書かれたものは初めてだったので、感激したものだ。今でも家宝の積りで、きちんと保管している。

ダイエーの大阪江坂本社の近くにダスキンさんの本社があり、訪問されたときの親身な応対に感心されて、「参考にせよ」という趣旨のお手紙であった。

ゲストハウスでは、開館当初から、オーナーさんたち初めゲストのお出迎え、お見送りには細心の注意を払つていたけれども、中内さんの思いを全員で改めて、確認した次第である。

私の在任中は、この手紙を額縁に入れて、館長室に掲げていたものである。

<館内報TOP-G(98年7月号)より>

「小山町の皆さんとの交流など」

この年、1999年(平成11年)は、開館5周年を迎え、ローソン東富士ゲストハウスの小山町における存在感が増しており、地元の注目を集めていたのである。

8月には、小山町教育委員会主催で、町内の各小中学校に新任された先生方20数名による見学会が開催された。

翌9月には、町主催で地区長さん達30数名の方々がゲストハウス見学に来館され、賑やかな交流会が開かれた。

その後も、小中学校児童などの見学会や体験会などいろいろな形で、地元との交流が重ねられたと記憶している。

「須走中学校教職員の皆さんのゲストハウス見学会開催」

ーー2001年(平成13年)2月28日ーー

2001年(平成13年)2月には、須走中学校の先生方によるゲストハウスの見学会が開催された。

館内の施設や研修風景を見学して頂いた後、私は、コンビニ業界の現状についてご説明した上で、「ローソン商人研修の基本的な考え方」に付いて、

【 ローソン商人研修の目的は、

第一に、ローソン商人の『心・技・体』を、体系的に学習して頂くことです。

『心』とは、「ローソン商人魂」の種子を植えること、

『技』とは、「システム」を理解し、「システム」を使いこなして商売すること、

『体』とは、「店頭で実践する力をくり返して習慣化すること」、です。

第二に、店舗運営にあたって、21世紀商戦を勝ち抜くために、ローソン商人として『天・地・人(テン・チ・ジン)の原理』を、身につけて頂くことです。

『天』とは、「時代観」、時代と市場、お客様の変化に敏感な商人センスを磨くこと、

『地』とは、「使命感」、地域のライフラインとしての「コンビ二」の仕事に惚れ込み、ライフワークとすること、

『人』とは、「チームプレー」、人の力を集める・借りる・活かす、という手法を身につけること、であります。 】

、 と解説した。

これを契機に、地元の児童や生徒たちによるゲストハウス見学や店舗実習などが、時々行われるようになったのである。

「ゲストハウスを惜しむ」

今思い起こすと、私がローソン・ゲストハウスに関わったこの8年間(1994年~2002年)は、まさに20世紀から21世紀への交替期であり、しかも千年に一度のミレニアムを迎える時でもあった。

その期間に、世界的には、グローバル経済化の急速な進行の中で、BRICSの台頭、アジア経済の成長及と金融危機、米国発のITバブルとその崩壊などに加えて、NYの「9・11」同時テロが世界史的大衝撃を与え、その後の世界秩序にも大きな変化をもたらすことになった。

日本においても、阪神大震災、オウム・サリン事件、山一、北拓銀など大型金融倒産、

戦後最悪の小売業倒産が相次いだ。

日本の名目GDPの推移を見ても、

1994(平成6)年・495・6兆円、

1995(平成7)年・504・6兆円、

1996(平成8)年・515・9兆円、

1997(平成9)年・521・3兆円、

1998(平成10)年・510・9兆円、

1999(平成11)年・506・6兆円、

2000(平成12)年・510・8兆円、

2001(平成13)年・501・7兆円、

2002(平成14)年・493兆円、と実質ゼロ成長を続けており、

この間、政府の公的債務は増大の一途を辿り、文字通り「失われた20年」の始まりという、今日の日本経済の姿を招来する、一大転換期であったことをひしひしと痛感するのである。

また、ローソンにとっても、

1994(平成6)年・5000店達成、「オーナー・シンポジューム・イン・ハワイ」開催、

1995(平成7)年・山形出店、

1996(平成8)年・中国上海出店、6000店達成、

1997(平成9)年・青森・秋田・高知・沖縄出店でナショナルチエーン達成、

1999(平成11)年7000店達成、

2000(平成12)年・東証一部上場、

2001(平成13)年・ダイエーグループから三菱商事グループへ

と、ある意味で栄光に満ちた、光り輝く時代であったと共に、激変していく転換期であったともいえよう。

『ローソン商人魂の総本山』として、私が渾身の気魄をこめて携わった懐かしき「ローソンゲストハウス」は、2010(平成22)年8月に、閉鎖売却されたと聞く。

「ローソン百年の大計」にとっては、惜しみて余りあることであった。

先人曰く、「一年の計には稲を植えよ。十年の計には樹を植えよ。百年の計には人を育てよ。」とある。

フランチャイズチエーンとしての持続的な発展には、常に新しい血、新しい仲間の参入を図ることが欠かせない。

チェーン本部としては常に、短期的な視点の利益追求を優先するのではなく、長期的な視点に立つ戦略こそが、不可欠であろう。

これに付いては、いろいろ感慨もあるが、またの機会に書くこととしたい。

ともあれ、ゲストハウスでの8年間は、私にとって、60歳から67歳までにあたり、、今から思うと、まだまだ体力・気力共に充実していたと感じる今日この頃である。

本号で、「ゲストハウス時代の思い出」を閉じ、次号からは、監査役として活動を回想してみたい。

「追記」

まだ厳しい冬の寒さが残る、今年の2月25日、西川和夫ローソン加盟店オーナーが亡くなった。 享年72歳と聞く。

西川さんは、神奈川県内で、ローソン店を10店舗経営されている、ローソンの模範的なオーナーさんである。

私のゲストハウス時代には、先輩オーナーとして西川さんの成功体験をヴィデオ教材化して、新人オーナー研修に使わせていただいたこともある。

<ゲストハウスで福祉会理事ご夫妻の皆さん

後列左端が西川さん (2001 年9月)>

西川さんは、ローソンオーナー福祉会の理事としても、長年貢献して頂いた。

私は何度もお店を激励訪問し、30年近いお付き合いの間柄であった。

これまでに西川さんとは、海外国内を含めて、30回以上もゴルフをご一緒にプレーしたであろうか。

ゴルフの腕前は、私同様のアヴェレージゴルファーであったが、向上心は強く、プロのレツスンに付いているほどの凝り性でもあった。

最後にお会いしたのは、1年ほど前のゴルフ場である。千葉カントリーの川間コースであった。

その後、数回電話でお話する機会があったが、少し体調が悪いとのことで、心配していたのである。

いつもにこやかで優しく、商売熱心、生真面目でありながら粘り強く、そしてユーモアに富む一面も持ち合わせていた。

私は座間市民聖苑で行われたお通夜に参列したが、オーナー仲間を含めて驚くほどの多くの参列者であった。

西川さんのお人柄が偲ばれた。

優秀なご子息たちと賢妻西川夫人が協力し合い、立派な後継者として、見事に経営されていることは心強い。

西川さんを偲んで、『一首・一句』をご霊前に捧げ、心からご冥福をお祈りする次第である。

『商いも ゴルフも共に ひたむきに 精進せし友(戦友) 春浅く逝く』

『早春の 慈顔を遺し 友(戦友)逝きぬ』

(以下次号)