第55話「無常ということ」
江戸蕎麦切りの初見(1614年)資料として知られる『慈性日記』には、江戸にやって来た尊勝院慈性という僧が友人の薬樹院久運と東光院詮長」を誘って常明寺という寺で蕎麦を食べたとある。
「江戸蕎麦」以前の「寺方蕎麦」に関心をもつ私は、この三人ゆかりのお寺を全て訪ねてみようと思った。
先ずは、東京・浅草の東光院を訪ね、それから京・白川の尊勝院、そして今日は近江・坂本の薬樹院を訪れたが、いずれのご住職さんたちにも「物好きな人だな」というような顔をされた。
この体験を経て私は、現在幻の寺とされている常明寺が何処に存在していたかを推定してみたが、その論は別の機会に譲るとしよう。
☆小林秀雄の坂本の蕎麦
ところで、坂本といえば、1716年ごろの創業だという「本家 鶴喜蕎麦」が名高い。さっそく訪ねたところ、木造二階建ての落ち着いた雰囲気をもつ老舗であった。
すぐに鶴喜の蕎麦を頂く。と、ここで突然思い出したことがあった。
〝あの小林秀雄も坂本で蕎麦を食べている〟のである。
「無常という事」というエッセイにそう書いてある。「無常という事」は、文庫本にしてわずか四頁にも満たないというのに、彼の代表的なエッセイのひとつとして知られている。それが発表されたのは昭和17年7月であるから、小林が近くの日吉神社を歩いたり、蕎麦を食べたりしたのは、少し前の39歳前後のころだったろうか。
☆白洲正子の坂本の蕎麦
そんなことを考えていると、もうひとつ面白いことに気がついた。
〝あの白州正子も坂本で蕎麦を食べている〟のである。
「『かくれ里』の魅力」という文の中で青柳恵介氏が書いているところによれば、白洲は『近江山河抄』を書くために、百済寺・金剛輪寺・西明寺の、いわゆる湖東三山を訪れる前に、「坂本に寄って蕎麦を食べよう」と提案をしたらしい。その時期は、年譜によると昭和47年62歳のころだ。
☆小林と白洲
二人が坂本で蕎麦を食べたのは偶然なのか? 運命なのか? あるいは白洲正子の意図なのか?
こういう謎が大好きな私は、白洲正子の意図だと踏んでいる。
というのは、小林秀雄の長女明子と白洲正子の次男兼正は夫婦であり、両者は姻戚関係にあるからだ。
その、小林秀雄の娘・白洲明子はこう証言している。
父は里見弴、堀口大学ら鎌倉文士の仲間と葉山の蕎麦屋「如雪庵一色」へよく通っていた。あるとき、熱心に討論するあまり、せっかく出した蕎麦が伸びてしまうのを心配して、女将さんが声をかけたら、「蕎麦は面を見れば分かる」と言って一蹴した。以来、主人は「面の立った蕎麦」を心がけるようになった。
実際、小林は蕎麦が好きだったらしく、漫画家の那須良輔を伴って、室町「砂場」にもよく行ったという。
だから、坂本でも蕎麦を食べたのである。
鶴喜をあとにした私は、さざ波の琵琶湖に浮く浮御堂に行った。
そこで私は、源信の阿弥陀千躰佛に祈りながら、ふと思った。
【近江堅田の浮御堂☆ほしひかる絵】
白洲正子は男の才に惚れこむタイプである。西行、明恵、世阿弥、梅若実、青山次郎・・・・・・。
白州正子が坂本に寄って蕎麦を食べたのは、次男の父小林秀雄に対する正子流の粋な追想ではなかったか、と。
参考:お国そば物語(24話、42話、44話)、慈性『慈性日記』(史料纂集)、小林秀雄著『無常という事』(新潮文庫)、白州正子著『かくれ里』(講談社文芸文庫)、白州正子著『近江山河抄』(講談社文芸文庫)、白洲信哉編『小林秀雄 美と出会う旅』(とんぼの本)、那須良輔著「小林秀雄文学紀行―好食相伴記」(群像日本の作家14『小林秀雄』小学館)、
〔エッセイスト、寺方蕎麦研究会発起人 ☆ ほしひかる〕
(次回は、9月25日に掲載予定です。)