第432話 「庶民派」のマジック

     

~ お蕎麦の食べ方から ~

ある日、あるテレビ局で、「お蕎麦の食べ方」についての仕事をしていたら、たまた同じスタジオにいらっしゃった庶民派タレントとして有名な方から、「蕎麦なんてネ、昔から庶民の食べ物と決まってんだよ。カタイこと言わないノ」と笑顔でご叱責頂いた。
確かに、お蕎麦にはそういう庶民的なところが一部あることも事実だから、私は「それでいいんじゃないですか」と半分真面目に、そしてここではお話する時間もないので、残りの半分ははぐらかすようにして、そう言った。

ただ、ついでだから、ここだけの話をしておこう。
「庶民」という言葉は今でこそ響きがいいが、そう簡単に片づけられるものでもなく、元はといえば上から目線の言葉であるといえなくもないところがある。
というのは、「」は「諸々」という意味だから、「庶民」とはその他大勢みたいなことだ。その始まりは、明治時代に貴族でもない、武士でもない、階級や政治などとは無縁の庶々の人々を「平民」という身分にしたのであるが、支配者層から見れば、権力者に抵抗できない層の人たち、落語でいえば「熊さん」「八つぁん」みたいに、人が良くて、単純なのが「平民=庶民」像だった。
ある意味でバカにされているのだから、自分から「庶民だ」と言う人はいないはずんなんだが、それがいる。イヤ、むしろ「庶民」という言葉を自ら積極的に使っている傾向がある。なぜだろう。

そんなことを考えていたら思い出したことがある。
ある会で会則を作ろうというとき、ある人が素案を作ってきた。拝見すると、そこには「政治・宗教のことは持ち込まないこと」と書いてあった。
皆さんは「マ、良識的なことだから、いいんじゃない」と他の事項と一緒に了承の空気であった。
確かに、人が集まる会などに政治・宗教のことを持ち込まれるとややこしくなるから、ぜひとも謳っておきたいところである。
でも翻ると、「政治・宗教のことを持ち込まないことが、ほんとうに良識的なんだろうか?」 私は面白いナと思った。
世界を見回すと、むしろ政治と宗教が一番大事なようである。
なのに、われわれ日本人はそれに触れないことが良識人だと考えている。やっぱり不思議な国民性だ。
しかし、政治・宗教対立から悲惨な事態に陥っている多くの民族を見ると、やはり日本人の方が正しいのかなと思ってしまう。その結果というか、やはりというか、熊さん・八つぁんみたいな無害の人が庶民派として好まれるわけだ。
たぶん、それは日本人の歴史的DNAとなっているんだろう。
江戸時代においては、徳川幕府の官僚によって異端の宗教や一揆などの反乱はご法度とされ、維新後も明治政府によって自由民権運動は弾圧され続けてきた。近々では安保闘争も潰れた。そして高度経済成長の結果による豊かな生活を経て、われわれは「良識ある庶民」に育てられたのである。

そんな土壌の上にさらに「庶民感覚」という言葉がかぶさった。
この「庶民感覚」という言葉がいつできたのかは知らない。「感覚」という語がくっついているところから推察すれば、新しい言葉だと思う。
意味は「生活者の視点」ということだそうが、そうはいわずに「庶民感覚」という言葉に換えられた。それこそセンスのある言葉だった。
以来、「庶民」という言葉はマジックのように「生活者」の意味として使われ始めた。いわば、言葉の意味転換である。
その結果、「庶民」という言葉には「正義の味方」みたいないいイメージを纏い、「庶民的」「庶民派」を持ち出されると、誰も抵抗できなくなったのである。
私はこの言葉を発明したのは誰だろうと思うときがある。皮肉をいえば、この「庶民感覚」という言葉を作り出した人は天才的悪魔だと思う。

トまあ、こんな批判精神がちょっぴり頭を出しそうなときもあるが、だからといって特に頑固な主義があるわけでもないところから、「平和なら『庶民』もいいか」と思ったりするのである。
よって、「蕎麦は昔から庶民の食べ物だ。問答無用!」といわれても黙ってしまうのである。

ところで、仕事が終わってから、あるマナー・スクールの代表の方から、メールを頂いた。
「TVで、お蕎麦の食べ方を拝見しました。私も仕事柄、お蕎麦の食べ方を尋ねられることがありますので、そのときは参考にさせてください。本来なら江戸ソバリエ協会様の出番かもしれませんが、お許しください。」
「おカタイこと言うな」という人と、「参考になりました」と言う人。世の中とは、面白いものだと思った次第である。

《参考》
・初期の「庶民」の定義は、社会学者:日高六郎の説を参考にした。

《余談》言葉の意味変換は、他にも時々起る。
・良い意味から悪い意味の例
「切れる(優秀)」⇒「キレル(短気)」
・悪い意味から良い意味の例
「拘り(小さなことにとらわれる)」⇒「コダワリ(一途に追求する)」

〔文 ☆ エッセイスト ほしひかる