第57話 「江戸蕎麦」言葉始

     

「江戸ソバリエ」誕生(六)

 

☆俳聖芭蕉翁の予言

 私が、江戸ソバリエ認定事業を考え出したきっかけは、俳聖芭蕉翁が言ったと伝えられている台詞との出会いが最初だった。

芭蕉は、嵯峨野の「落柿舎」という去来の別邸で弟子たちを前にして、「俳諧と蕎麦切は江戸の水によく合う」と言ったという。

 

【嵯峨野・落柿舎に掛かる蓑笠☆ほしひかる絵】

(※ 蓑笠が掛かっているときは在邸を示めしていたという)

  もちろん、そのころの江戸では、蕎麦はまだ登場したばかりで、一般的ではなかったが、新都江戸で自分の俳諧を根付かせるのだという意欲を表わす譬えとしてニューフェイスの蕎麦を引き合いに出したのだろう。

 後に、蕎麦は江戸っ子が育て、江戸で完成した江戸の食べ物になったから、芭蕉の予言は的中したが、芭蕉自身も蕎麦が好きだったようで、「奥の細道」の旅中でも、須賀川や出羽で蕎麦を楽しんでいる。

 

☆生粉打ち亭の「江戸蕎麦」

 ばくぜんと「蕎麦」の勉強会を開こうかと思っていた私は、芭蕉の台詞を知ってから、対象を「江戸の蕎麦」へと明確にすることができた。

 そのころ私は、近所の「生粉打ち亭」という蕎麦屋に時おり顔を出していた。その店の献立には「江戸そば」「津軽そば」というのがあった。「津軽そば」はやや黒く、江戸のそれは細めの蕎麦で、私は細めの「江戸そば」が好きだった。それに名前がよかった。

 当時「江戸の蕎麦」という言葉はあったが、「江戸そば」という言葉はあまり聞いたことがなかった。店主の池田さんは、各々の土地がらの蕎麦というつもりで、「津軽そば」、「江戸そば」と名付けたということだったが、「江戸そば」という言葉は当時は皆無だったと言っておられた。

 そこで私はピンときて、江戸で完成し、江戸の食べ物となった蕎麦を総称する言葉として「江戸蕎麦」を使おうと思い、池田さんにお断りした。

 

☆都市文化の理念

 しかし、このままでは池田さんの言葉を拝借したにすぎない。何かが足りないと思っていたとき、山崎正和さんの「足利義満」論を読んだ。これまでも山崎さんの著書は『世阿弥』や『柔らかい個人主義』に感銘をうけていたが、今度も目から鱗だった。そこには、都市文化というものを最初に創った人間は足利三代将軍義満だったという論が述べられていたが、私は次のような大意で受け止めた。

 武家の棟梁であった義満は、むろん武力、権力ともに最高位にあった。だが、さらに精神的権威を高めようとして、義満個人の趣味であった、和歌、管弦、蹴鞠、能楽をより煌びやかに装って、地方の守護大名をその文化的権威で押さえつけていった。義満は洗練して垢ぬけした趣味や文化を求め、それを理解しない者を田舎者と蔑んでいったのであるが、この蔑むという差別化によって権威が醸しだされ、その結果が都の文化へ成長していった。こうして、単に政庁や幕府が存在するだけの都が⇒文化都市へと衣替えをしていったのである。

  そして痛感した。仮にも「江戸蕎麦」という風に頭に「江戸」を冠するなら、都市文化とは何かという概念を掴んでおかなければならないではないか、と。

 そして山崎さんの義満論こそがその概念にあたると思った。

 私は、この出会いによって都市文化というものを少し理解し、「江戸蕎麦」のバックボーンを得ることができた。それから私は、「江戸蕎麦」という言葉を使い出したのである。

 

 参考:「江戸ソバリエ」誕生 (第46話、第50話、第51話、第53話、第54話)、

 支考『十論為弁抄』、支考「落柿先生ノ晩歌」、支考「芭蕉翁追善之日記」、支考「招魂ノ賦」、去来「落柿舎の記」、芭蕉『嵯峨日記』、池田好美『手打ちそば天下一品』(創森社)、山崎正和「足利義満」(『日本史探訪8』角川文庫)、亀井勝一郎「都市美について」(『私の美術遍歴』角川文庫)、

    〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる〕

(次回は、10月10日に掲載予定です。)