第217話 会津蕎麦口上
お国そば物語⑱
「全国ご当地そば祭りinすぎと」で会津の長谷川徹さんが「会津蕎麦口上」をご披露された。徹さんは父親の吉勝さんから教わったという。
蕎麦口上というものがいつから始められたかは知らないが、代々の伝承というのは日本蕎麦文化の大きな遺産であると思う。
よって、この「談義」にも記録しておきたい。
なお、徳一というのは、日本仏教史上でも、最澄の諍論したことで知られる高僧であるが、実際に蕎麦との関わりがあったかどうかは不明である。おそらく、会津の人が、その名を口にせざるをえないほどの誇るべき先達だと理解した方がいいだろう。
トザイ東西♪ 飲めや歌えのおん客さまをとめおきまして、まことに失礼さまにぞんじますが、手前は陸奥会津磐梯山、猫魔、腰岳山、古城峰と続く山裾の会津仏教文化発祥の地恵日寺の徳一蕎麦屋の奴なり。先ず、蕎麦の前提より申し述べましょう。
昔千三百年前、奈良、平安と続く仏教文化の盛んなりしころ、徳一という坊さんあり、粗衣粗食にあまんじ、五年間にわたり最澄空海などと論争し、三一権実諍論を展開せしも都を去り、筑波山を経てこの地に来たり。
布引と 消えて来たれば 更級の 月の輪わがたに つくと思いば
当時、病脳山はじめあたりの山々が爆発ありて、地域の人々は生活に苦しんでいた。穀物はとれず、作物は実らず。そしてこの地に清水寺を建立し、先ず食物からと蕎麦を作り、その場をしのぎ住民を救ったのである。
これ徳一蕎麦のゆえんである蕎麦屋の奴。
蕎麦の作法は知らねども、年に三度の土用あり、中の土用に種を撒き、三日四日で芽を出し、生え立ちましては茎葉が繁る、十日二十日で花が咲き、やがて秋ともなりぬれば、花が散ったあと、一角二角三角と帝立ちまする。
帝と申すは、昔大上さまをさして申すなり、一条通りは大納言、二条通りは中納言、三条通りは三納言、四条通りが平納言、五条通りの段をかたどりまして、五段の蕎麦をうりかけますればこの奴。
この家の祝言ともあるなれば、花婿さんや花嫁さん、金の屏風にお腹ばてれん、敦盛、維盛、味のよいのが義経公、器量のよいのを玉織姫と、彼方此方のおんあいに売りかけまするはこの奴。
一つひまなしこの奴、
二つ蓋をばぽんととり、
三つ見事に盛り重ね、
四つ他の村までも、
五つ何時でもはやる蕎麦、
六つ昔より、
七つ名代の蕎麦なれば、
八つ屋敷回りにとれたる蕎麦、
九つこの家の婚礼であるなれば、
十で父さん母さんの祝の蕎麦、
何がなくても葱の刺身でむしょうやたらとあがらんしょ。
売れるは売れるは、買いましょう買いましょう
一杯が二杯、三杯が四杯五杯と度重なれば、天の岩戸もおし開く。
参考:お国そば物語シリーズ(第213、212、211、167、128、124、121、120、119、118、89、66、48、44、42、24、9、7話)、
〔全国ご当地そば祭り実行委員、武蔵の国そば打ち名人戦審査員☆ほしひかる〕